冠位十二階
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同時代的には朝鮮の官位に似ており、こちらを主に参考にしたとする説と、主に中国の古典文献を参考に考案したとする説がある[48]

日本に冠位が設置施行された時期に中国にあった官品制度は、官を序列する仕組みであって、人を序列する冠位・位階制度とは原理的に異なる[49]。冠位はの制度を参照して作られたものではない。日本では冠位を爵とも呼んだが、隋・唐の爵は冠位とも官品とも異なり、代の二十等爵が冠位に似た人に与える等級である[50]。冠や服の色で官吏の等級を表す思想はもと中国にはなく、後漢末に魏の武帝(曹操)が布でかぶりものを作り、その色を分けて貴賤を表したのをはじめとする[51]。服色では、南北朝時代に北朝の北魏で定められた五等公服が五色の服色で等級を表したもので、これが品(官品)により色を分ける北周の制度にも引き継がれていたと言われる[52]。等級による分割ではないが、北周では役務別に十二種の冕(冠の一種)を定め、それが五行の色で定められていた[53]

高句麗・百済・新羅の官位は、人に授けて肩書きとする点、授けるときに生まれの貴賤が重視される点で、日本の冠位と似る[54]。『隋書』高麗伝が伝える高句麗の官は十二等あり、冠の違いで等級を示した。この十二等各々の名称は古い官職名が転用されたものだが、日本の冠位十二階とは位の数も冠の違いを伴う点も似ている[55]。新羅の十七等も冠の違いをともなう位であった[56]。『隋書』百済伝が官に十六品があると記す百済の十六等の官位は、日本の冠位と同質で、帯の色を分け、高位の冠に飾りをつけた[57]。百済の十六階のうち十二階の名称は漢語を用いて整然と設計されており、その点で冠位十二と似ている[58]。布製のかぶりものを冠と呼ぶのは百済の風習である[59]。朝鮮三国の官位の成立時期は明らかでないが、日本の冠位より前であることは確かで、使者の往来がある隣国の制度として知られていた。

だが朝鮮重視説をとる場合でも、その朝鮮の制度は古い中国の制度を範として作ったものであるから、冠位十二階は間接的に中国の制度の影響下にある[60]。中国の古典を範にしたとしても、日本人が朝鮮三国の官位の知識を持たずにいたとは考えられない。いずれに重みがかかるにせよ、一つのモデルの単純な模倣ではなく、各種制度を参考に独自の制度を案出したものであろう[61]。そして、異なる制度になったのは偶然や工夫の結果ではなく、違えることに意味があったと考えられる。古代の東アジアで官吏の服装は、それと一体になる儀式とともに支配秩序を目で見えるかたちで表す機能を持っており、ある国の制度をそのままに採用することは、その国の支配体制への服属を意味していた。新羅や百済に対して優越的な小中華として振る舞った当時の日本にとって、朝鮮諸国の単純な模倣はせず、中国に対しても独自性を持つ制度を求めた。冠位十二階は、中国的な礼秩序を、朝鮮三国とも中国とも異なる方法で示すための制度であったと言える[62]
脚注[脚注の使い方]^ 三訂版,世界大百科事典内言及, 精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 改訂新版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社日本史事典. “冠位十二階(かんいじゅうにかい)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年1月11日閲覧。
^ 『日本書紀』巻22、推古天皇11年12月壬申(5日)条。
^ 『日本書紀』巻22、推古天皇12年正月戊戌(1日)条。
^ 「まひとぎみ」は原田淑人「冠位の形態から観た飛鳥文化」393頁。「まへつきみ」は黛弘道「冠位十二階考」330頁、同「冠位十二階の実態と源流」359頁。
^ 井上光貞「冠位十二階とその史的意義」283頁。
^ 坂本太郎『大化改新の研究』203頁。宮田俊彦「聖徳太子とその時代」22頁。
^ 坂本太郎『大化改新の研究』203頁。
^ 関晃「推古朝政治の性格」(『大化改新の研究』下27頁・『東北大学日本文化研究所研究報告』第3集43頁)。宮本救「冠位十二階と皇親」42頁。
^ 武光誠『日本古代国家と律令制』9-17頁。
^ 井上光貞「冠位十二階とその史的意義」300頁。
^ 大隅清陽「古代冠位制度の変遷」44頁。吉田孝「律令国家の形成と東アジア世界」260-261頁。
^ a b 関晃「推古朝政治の性格」(『大化改新の研究』28頁・『東北大学日本文化研究所研究報告』第3集44頁)。
^ 坂本太郎『大化改新の研究』。黛弘道「冠位十二階考」288頁、同「冠位十二階の実態と源流」357-358頁。
^ 宮田俊彦「聖徳太子とその時代」22-23頁。黛弘道「冠位十二階考」319-323頁。
^ 宮田俊彦「聖徳太子とその時代」23頁。井上光貞「冠位十二階とその史的意義」289頁。宮本救「冠位十二階と皇親」31頁。
^ 黛弘道「冠位十二階考」304-309頁。
^ 武光誠「冠位十二階の再検討」28頁。
^ 坂本太郎は冠位は全く勲功によると述べ(『大化改新の研究』203頁)、黛弘道も「冠位制度が皆次第転昇の原則を有する」はずだと論じた(「冠位十二階考」296頁)。
^ 喜田新六「位階制の変遷について」上4頁。
^ 『日本書紀』巻第13、安康天皇元年(454年)2月戊辰(1日)条、巻第14、雄略天皇14年(470年)4月甲午(1日)条。
^ 新編日本古典文学全集『日本書紀』2、134頁頭注。
^ 黛弘道「冠位十二考」327-329頁。
^ 増田美子は錦冠が大徳・小徳の冠で、良家の子が小徳を授かったと解釈する
^ 時野谷滋「薫弘道氏『冠位十二階考』読む」129-130頁。川服武胤「推古朝冠服小考」19-20頁注7。宮本救「冠位十二階と皇親」27頁。
^ 武光誠「冠位十二階の再検討」17-18頁。
^ 谷川士清『日本書紀通証』巻第27、臨川書店版第3冊1520頁。河村秀根・益根『書紀集解』巻22、臨川書店版第4冊1273頁。
^ 坂本太郎『大化改新の研究』229-230頁。武光誠『日本古代国家と律令制』21頁。福永光司「聖徳太子の冠位十二階」75頁。
^ 『東大寺図書館蔵文明十六年書写『聖徳太子伝暦』影印と研究』152-153頁に「徳トいふ者、五行を摂ム也」。谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1520-1521頁。
^ 坂本太郎『大化改新の研究』234-235頁。宮田俊彦「聖徳太子とその時代」21頁。武光誠「冠位十二階の再検討」(『日本古代国家と律令制』21頁)。
^ 坂本太郎『大化改新の研究』234-235頁。宮田俊彦「聖徳太子とその時代」21頁。
^ 宮田俊彦「聖徳太子とその時代」21頁。
^ 福永光司「聖徳太子の冠位十二階」76-77頁
^ 若月義小「冠位制の基礎的考察」129-130頁。
^ 坂本太郎『大化改新の研究』237-238頁。
^ 岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」58頁。
^ 岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」69頁。虎尾達哉「冠位十二階と大化以降の諸冠位」33頁。吉川真司『飛鳥の都』25頁。
^ 谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1521頁。河村秀根・益根『書紀集解』巻22、臨川書店版第4冊1274頁。増田美子『古代服飾の研究』108-110頁。
^ 谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1521頁。原田淑人(「冠位の形態から観た飛鳥文化」393頁)は大小の区別法は不明とする。
^ 岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」67頁。
^ 岸哲男「推古朝冠位十二階の「当色」について」62頁。
^ 『日本書紀』大化3年是歳条。「七色」と書くが、色で冠の名が示されるのは3つだけで、あとの3つは織・縫・錦という織物の生地の名で、残る1つは建武である。
^ これら諸説については増田美子『古代服飾の研究』105-107頁に紹介がある。
^ 谷川士清『日本書紀通証』巻27、臨川書店版第3冊1520頁。


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