冠位十二階
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外交的動機については、第1回遣隋使を推古天皇8年(600年)に派遣した時の教訓から冠位十二階が編み出されたとする有力な説がある[10]。『日本書紀』にはこの遣使に関する記事がないが、隋の側にはあり、「王は天を兄、日を弟として、日がのぼる前に政務をとる」という倭の制度を聞いて、隋の文帝(楊堅)が道理がないと批判したという。書紀に記載がないのはこの遣使の扱いを屈辱とした書紀の編者がわざと載せなかったためではないかと推測する。そしてこの失敗を繰り返さないため、十二階の冠位を定めてから、その位を帯びた使節として小野妹子を派遣し、礼を学びたいと言わせたのではないかという[11]
冠位の授受と使用
冠位を授ける者

冠位を与える形式的な授与者は天皇である[12]。学説としては、かつて冠位十二階はもっぱら摂政皇太子聖徳太子(厩戸皇子)の業績であるとみなされていたが[13]、後には大臣である蘇我馬子の関与が大きく認められるようになった。学者により厩戸皇子の主導権をどの程度認めるかに違いがあるが、誰に冠位を授けるかを決める人事権者は、制定時には両者の共同とする学者が多い[12]

馬子とその子で大臣を継いだ蝦夷、さらにその子の入鹿の冠位は伝えられない。蘇我蝦夷が、子の入鹿に私的に紫冠を与えて大臣にしたことが、『日本書紀』に記される。古くはこれが最高の冠位である大徳にあたり、蝦夷・入鹿は大徳を勝手に受け渡したのだと解釈されていた。しかし現在では蘇我の大臣は十二階の冠位を授からなかったと考えられている[14]。馬子・蝦夷・入鹿は冠位を与える側であって、与えられる側ではなかった。厩戸皇子等の皇族も同じ意味で冠位の対象ではなかった[15]
冠位を授かる者

姓(カバネ)は氏の構成員全員が身に帯びるが、冠位は直接何かの役職について朝廷に仕えるような個人だけが授かった。判明している数十例からみる限り、十二階の冠位の授与範囲は、畿内とその周辺に限られていたらしい。具体的には、中央の有力豪族と畿内周辺の地方豪族が冠位を授かり、他地域の地方豪族はもらわなかった。朝廷の支配力の限界である[16]

知られる限りの例では、最上位の大徳と小徳はといった高い姓(カバネ)を持つ者で占められている(『上宮聖徳太子傳補闕記』では「」の姓を持つ秦河勝が小徳に叙されているが、他にそのような記述は見られない)。大仁・小仁では高いカバネと低いカバネがまじっている。大礼以下は地方豪族や下級の伴造が主で、高いカバネのものは少数になる[17]

国博士高向玄理が小徳、仏師の鞍作止利が大仁など、あまり高くない氏の出身者が特別な能力功績により高い冠位を授けられた例がいくつか伝わる。冠位十二階は門閥を打破し実績による人材登用の道を開くものだという説が根強くあるが[18]、昇進は小野妹子が第5階の大礼から第1階の大徳に登ったのが顕著な例で、着実な昇進と呼ぶべき例はあまりない。後の律令制下の位階のような生まれの良さが昇進速度に反映して差が開くのではなく、生まれの貴賤で位が決まり、ほとんどの人がそのまま変わらないような、固定的身分制度であった[19]
着用場面

古墳時代の5世紀から日本の支配層は冠を着用しており、朝鮮半島の影響を強く受けた金属製(多くは金銅)の冠が古墳副葬品として見つかっている。やはり5世紀にあたる『日本書紀』の安康天皇紀と雄略天皇紀に見える[20]押木珠縵もこの型と言われる[21]

十二階制の施行期にも位冠でない冠が使われていたと考えられる。十二階の上にあった蘇我大臣家には紫冠があり、皇族も自己の冠を着用していた。下のほうでは、やはり冠位を持たない地方豪族が自分の冠を持っていたようで、伊勢荒木田氏が代々赤冠を着けていたことが知られる[22]。藤原氏の『家伝』には中臣鎌足(藤原鎌足)が青年のときに良家の子に一斉に錦冠が授けられることになったとあり、これもまた十二階の外の冠と説かれる[23]。しかし蘇我氏の紫冠も含めてこれら史料の信頼性を低く見て、後世の造作とみなする学者も多い[24]

冠位は服装の規定と連動するもので、推古天皇16年8月の唐の使者裴世清の接待や、天皇と臣下の薬猟のときに(推古天皇19年5月5日、20年5月5日)、冠位によって服装と髪飾りを分けたことが『日本書紀』に記されている[25]
冠位と位冠
名称と順序

冠位の名称のうち、徳を除いた五つは儒教の徳目である五常である。五常は仁義礼智信と並べるのが普通だが、冠位十二階は仁礼信義智という見慣れない順序をとっている。これは五行思想の木火土金水に対応したものである[26]。五行の並べ方には二種類あり、そのうちの五行相生は、木は火を生み、火は土を生み、という関係を木火土金水の順で表す。これを対応する徳に置き換えると、仁礼信義智が得られる。冠位十二階は五行相生にもとづくのであろう[27]

徳については五行と別の説明が必要になる。『聖徳太子伝暦』は、徳は仁以下の五つを合わせたものだから最上としたと説き、これが通説である[28]

五行思想は中国の思想的産物ではあるが、仁礼信義智の順序で五常を並べて地位の表示にし、徳をその上に置くという発想については、日本独自のものとする説と、中国の道教の影響とする説が分かれる。伝統的な通説は、冠位十二階を立案した日本人の創案と考えた[29]。ことさら順序を変え、信と礼を上にしたところに十七条憲法の思想、ひいては聖徳太子の思想の反映を見る人もいる[30]。日本創案説の論拠には、中国の文献に徳仁礼信義智の配列が見えないことがあった[31]

しかし1981年に道教研究者の福永光司が、5世紀成立の道教経典『太霄琅書』に徳仁礼信義智の配列がそのままあると指摘して道教の影響を説き、学説状況は変わってきた[32]。別に、隋の蕭吉著『五行大義』に、仁礼信義智をこの順で説明し、それらが合わさって徳を全うするという趣旨の文があることから、遣隋使が隋から摂取したとする説もある[33]

官位・官職を12に分ける制度は、高句麗の官位や北周の冕(冠の一種)に先例がある。ただ、基準数として12を用いるのは、十二支十二宮、十二星など中国に例が多く、特定の制度の継承でない可能性もある[34]

冠の色の諸説冠位五行説非五行説
濃薄区別濃薄区別なし徳冠が錦七色十三階制から隋書から
大徳濃紫紫錦赤紫紫
小徳薄紫
大仁濃青青青青赤
小仁薄青
大礼濃赤赤赤黒青
小礼薄赤
大信濃黄黄黄紺緋
小信薄黄
大義濃白白白黒緑
小義薄白
大智濃黒黒黒緑縹
小智薄黒

  十二階制の位冠は?(絹の布の一種)という布でできていて、二つの部分からなる。本体は袋状の帽子で、その周りに数センチか十数センチの縁がつく。飾りを付けることもある。冠には位によって異なる色が定められたが、『日本書紀』等の諸史料は何が何色に対応するのかを示さない[35]。五行五色説をもっとも有力なものとして様々な推定説が唱えられていたが、どれも確証はない[36]

徳を除く冠の色は、一般に五行に対応する五色であろうとされており、それに従えば仁が、礼が、信が、義が、智がとなる[37]。江戸時代の国学者谷川士清は大小を濃淡で分けたが、それは後の制度からの類推である[38]

五行説の難点は、義の白にある。白は古代日本で尊貴な色とされており、後の大宝令701年)では天皇だけの衣色と定められた[39]。大宝令以前の天皇の色については不明だが、七色十三階冠から冠位四十八階までの諸制度で白が冠位の色、つまり皇族臣下の色として使われた形跡がない。大義・小義のような下級の色に使われたか疑問が残る[40]

五行によらず、後代の制度を遡らせたり、隋の制度をあてはめたりして推定する説もある。七色十三階冠は七色の冠を大小に分けるもので、そのうち紫、青、黒の3色が冠位の名に出ている[41]。この3色をとって徳が赤、仁が青、礼信義智が黒とあてはめたり、それに服色の緋(赤)、紺、緑を加えて徳が紫、仁が赤、礼が青、信が紺、義が黒、智が緑と割り当てる説がある。『隋書』礼儀志から服の色の制度をとり、徳仁礼が紫、信が緋、義が緑、縹が智とする説もある[42]


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