写真花嫁
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写真花嫁(しゃしんはなよめ、英語:picture bride)とは、日本からハワイ王国準州)またはアメリカ合衆国移住した男性と写真履歴書などを交換するだけで実際に会うことなく、代理による結婚式を行い、入籍によって査証を発給され、渡航した女性であり、また、この習慣を指す場合もある。1907年から1908年にかけて成立した日米紳士協約によって再渡航・家族呼び寄せ以外の日本人の移民が禁止された後、現地の日系社会の存続・発展のために取られた措置であり、1924年排日移民法の成立までの間に20,000人以上の写真花嫁が渡航した。ただし、米国では、個人の意思や感情を無視した野蛮な習慣であり、紳士協定に違反するなどとして排日論者のさらなる反感を買ったため、1920年、日本政府は、旅券発給を妻が夫とともに渡航する場合にのみ限定し、事実上、この時点で写真花嫁の習慣は廃止された。

また、韓国人女性も1910年から1924年までの間に約1,000人が写真花嫁として渡米した。
経緯

写真花嫁の渡航は、事実上、1908年から1920年までの間に限定される。

1885年サトウキビ栽培製糖業の発展に伴い、日本とハワイ王国との間で日本人の労働移民に関する日布移民条約が締結され、ハワイへの移民が正式に許可されることになった。これ以後、日本人のハワイへの移民は、1885年2月から1894年6月まで同条約により政府が斡旋した官約移民、1894年7月から1900年6月まで民間企業の斡旋により渡航した私約移民、その後1908年1月に一般の移民が禁止されるまで契約によらずに渡航した自由渡航移民に分けられる。ただし、1898年にアメリカ合衆国がハワイ共和国を併合し、ハワイ準州となった後、1924年7月1日に施行された排日移民法により日本からの移民が禁止されるまでは、再渡航および家族呼び寄せは許可されていた[1]ジョセフ・ドワイト・ストロング(英語版)作《明治拾八年に於ける布哇(ハワイ)砂糖耕地の状景》(個人蔵)1885年に入植した官約移民の第一陣をモデルに描かれた絵。チューリッヒ大学で日本近現代史を教えるマーティン・デューゼンベリ教授は、「本来であれば笑顔でのんびり休憩など出来なかったはず。移民の暮らしが素晴らしいものだとPRすることで、ハワイ側がもっと多くの労働者を呼び込もうとしたのではないか」と分析する[2]

1885年2月8日に、主に広島県山口県熊本県沖縄県出身の943人の最初の官約移民がホノルル港に到着したとき、カラカウア王が自ら出迎え、盛大な儀式が行われた[3]。以後、ハワイの日本人移民の数は1888年の6,420人から、1890年に12,360人、1896年には24,407人と急激に増加し、1900年には61,111人に達し、ハワイの人口(154,001人)の約40%を占めることになった[3]

1908年の移民禁止は、1907年11月から1908年2月までの間に林董外相とトーマス・J・オブライエン(英語版)駐日米国大使との間で交わされた7通の書簡・覚書によって成立した日米紳士協定に基づくものであり、排日運動の激化を受けての対応であった[4]

農業労働者として移住した多くの日本人は、もともと衣錦還郷を夢見て、一定期間滞在するつもりであったが、一日50セントの低賃金では財産を築くことができず、貧しい生活を余儀なくされた。「恥」の意識が強い当時の日本人男性には、失敗者として故郷に帰ることなど考えられず[3]、やがて現地で結婚して家庭を築き、定住・永住することに希望を見出すようになった。アメリカ西海岸に移住した日本人も多かったが、いずれにせよ、日系一世は1790年の帰化法(英語版)により市民権取得資格がなく、異人種間の結婚も禁止されていた[5]。加えて、1908年から一般の移民が禁止され、両親や妻子の呼び寄せのみが許可されると、米国で家庭を築き、日系社会を存続させるためには、写真花嫁に頼る以外に方法がなかった。当時、ハワイでは男性447人に対して女性100人の割合であったが、呼び寄せ時代と呼ばれた1911年から1919年までの間にハワイに渡航した写真花嫁の数は9,500人[3][6]、米国では、1900年に男性24人に対して女性1人の割合であったのが、写真花嫁の渡米によって1910年から1920年の間に、女性の人口が9,087人から38,303人に急増し、男性2人に対して女性1人の割合になった[7]

1908年から1924年までの間に渡航した写真花嫁の数は20,000人以上である[3][8][9][10]
手続き

未婚男性で経済的余裕のある者は一時帰国し、結婚して妻を連れ帰ったが、渡航費や時間的余裕がなければ、日本に住む家族や親戚に頼むしかなかった。当時の日本では結婚は個人ではなく家族(主に家長)が決めることであり、見合い結婚が一般的であったため、仲人を介して写真・履歴書等を交換し、結婚を取り決めることに何の問題もなく、面識のない男女が結婚することも珍しくなかった[7]

写真花嫁の場合は、結婚が正式に決まると、花婿本人が不在のまま代理人を立てて結婚式を行い、入籍を済ませる。その後2年ほど文通をする場合もあるが、夫による呼び寄せとして査証が発給されたら、他の写真花嫁と一緒に同じ船に乗って渡航する。一か月もかかる船旅の後、移民管理局に着いたら入国手続きを済ませ、ここで初めて夫に会う。移民局で数日待たされることもあり、夫が現れない場合も、また、現れても、花嫁を見て連れ帰るのを拒否する場合もあった。移民局の職員が気の毒に思って連れ帰り、後に結婚させることもあった[11]
写真花嫁として渡米した理由

写真花嫁の側からすると、外国に住む一度も会ったことのない男性との結婚を決意した理由は様々である。まず、1. 当時の封建社会における家制度、倫理・道徳規範や価値基準があった。すなわち、親が決めた結婚を拒むことは考えられないことであり、親孝行や両親の希望に沿うための自己犠牲と考えたのである[8]。また、2. 経済的な理由として、2-a. 貧しい家庭では娘を養うことができないために、できるだけ早く結婚させようとした。2-b. これは子沢山の家庭では後から生まれた子供たちの教育のためにも必要であり、特に、2-c. 米国は豊かな国だと聞かされていたので、娘からの送金を期待した。実際、2-d. 当時の女性には自活する能力がなかった[6]。さらに、3. 日本の姑との不和、4. 婚期を過ぎた女性の不安といったネガティブな理由から、より独立心の強い女性は、5. 米国という文明国への好奇心、6. 新世界の牧歌的・浪漫的生活への憧れ[8]、7. 日本社会における伝統的な女性の役割や結婚制度に違和感を覚え、旧弊な因習から逃れて自由を手に入れたいという思い[12]があったとされる。日系二世の作家ヨシコ・ウチダが1987年に発表した小説『写真花嫁』の主人公ハナはこのような女性であり[13]、実際、労働目的で移住した男性の多くが日本であまり教育を受けていないのに対して、女性の場合は、平均以上の教育を受けた者が多かった[12]。ヨシコ・ウチダの母イクも同志社大学を卒業し、恩師の紹介でサンフランシスコに住む日系一世と結婚した写真花嫁である[14]。最後に、8. 悪い噂や秘密、暗い過去、偏見その他の理由で、日本で結婚できない場合もあった。写真花嫁としてハワイに渡った祖母の実話に基づく[15]カヨ・マタノ・ハッタ監督の映画『ピクチャーブライド』の主人公カヨは、両親を結核で失い、身寄りもなく、また当時、結核が遺伝性という風説のために日本で結婚できなかったために写真花嫁の道を選んだという設定である。また、日系二世の作家ヒサエ・ヤマモトの代表作である短編小説『十七文字』のウメ・ハナゾノは、日本で結婚を考えていた男性と身分の違いのために結婚できず、死産の経験のある女性であり[16]、同じく二世の作家ワカコ・ヤマウチの代表作である短編小説『そして心は踊る』のオカ夫人も夫に「愚かにも評判の悪い男に引っかかって、少しお古の花嫁だが、仕方なくもらってやった」と侮られる[17]
失望・苦難

小説『写真花嫁』、映画『ピクチャーブライド』の場合と同様に、多くの写真花嫁は初めて会った夫に失望した。通常、男性は女性より10?15歳もしくはそれ以上年上であり、見合い写真と似ても似つかない場合も少なくなかった。16歳のカヨの夫マツジは43歳であった。写真はたいてい若い頃のものや友人の写真、修整された写真であった。一張羅を着て、友人が雑役夫として働いていた白人の瀟洒な邸宅の前で撮った写真などもあった[11]。男性からは写真を送らない場合すらあり、花嫁は移民局で夫に見つけてもらうまで待つしかなかった[18]。また、通常は、仲人(ハワイでは「シンパイ(心配)」と呼ばれていた[6])から男性の家系財産教育、健康状態について知らされていたが、こうした情報も、その多くが偽りであった。


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