写本
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写本室の中の修道僧
中世キリスト教文化
装飾写本(彩飾写本)
詳細は「
装飾写本」を参照中世においては、写本に文字だけでなくしばしば優美な装飾画が描かれた。その中には特別注文で芸術品としても鑑賞できるものが作られ、非常に高価なものであった。現在では切り離されて1枚毎に美術品として扱われているものも見られる。写本における挿絵(細密画)をミニアチュールと言うが、この名前は使用される顔料、ミニウム(朱、鉛丹)からとられたものである。そして、テンペラ技法を使って描かれていた。
ケルトの写本
近年、ケルト文化・美術が関心を集めているが、8-9世紀の「ケルズの書」(四福音書の写本)などはケルト三大写本といわれている。抽象的な装飾が主である。
都市の写本工房
写本は修道院で多く行われていたが、12世紀以降、各地に大学が発達してゆくと、注文で請け負って写本を作る工房が成立した。
ベリー公のいとも豪華なる時祷書
装飾写本中、特に有名なものはフランスで制作された「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」である(中央公論社から『ベリー侯の豪華時祷書』として大型本で刊行)。多くの写本を集めたベリー公ジャン1世(1340年-1416年)の依頼で15世紀始めに制作が始まったが、ベリー公がペストで死去したため一時中断し、15世紀の終わりに完成した。シャンティイー城図書館に所蔵されている。
ルネサンス以降

ルネサンスの時代になり活版印刷が行われるようになってからも、都市の工房では装飾をほどこした写本が作られ、高値で取引されている。
西アジア・南アジアの写本「アルグン・シャーのための『クルアーン』」装飾ページ。1368-88年頃、マムルーク朝
クルアーン写本の始まり

西アジアでは、イスラームをきっかけとして写本文化が栄えた。それまでは口頭で伝えられていたクルアーンの全文を書き写し、650年(ヒジュラ暦30年)、第3代正統カリフのウスマーンの時代にクルアーン写本が完成した。この写本を基準として正典化事業が行われ、クルアーンの音読と書き方が定められ、基準に合わなかったものは廃止された。このためムハンマドの弟子が持っていた章句や配列が異なるバージョンや、方言の地域的バリエーションなどは廃止された[5]
写本・翻訳の普及

ウスマーン治世下の7世紀からアッバース朝の9世紀初頭までの写本が似ており、書体はヒジャーズ体かクーフィー体である。現存のクルアーンは9世紀から10世紀にクーフィー体が確立されてからのものであり、のちにナスフ体が使われるようになる。当初は朗誦のための写本という面が強かったが、次第にカリグラフィーが発展し、書物としての視覚的な紙面になっていった[6]

アッバース朝の首都バグダードでは大量の写本や翻訳が作られ、あわせて学問や文芸が活発になった。ワッラーク(英語版)と呼ばれる筆写・校正・製本・販売などを行う職人も現れ、クルアーン以外のさまざまな写本が作られた。書籍商だったイブン・ナディームの目録である『フィフリスト』では、当時どのような写本が流通していたかを確認できる[7][8]

写本製作はイスラーム世界の各地に拡がり、イベリア半島のアンダルスのウマイヤ朝では、首都コルドバで常時170人の女性書家がクルアーンを筆写した[9]。科学分野においては、ギリシャの文献が翻訳されて写本が作られ、数学、天文学、占星術、気象学、光学、動物学、植物学、農学、鉱物学、医学、薬学、哲学、音楽などが継承された。このため、ギリシャ語では失われてしまった文献が、アラビア語で現存している場合もある[注釈 1][11]
写本芸術の完成

製本ではビザンツ帝国のシリアやエジプトの技術を取り入れて冊子体の書物を作り、現在の書籍の原型にもなった。写本は芸術品として王宮内の図書館の工房で製作され、芸術的なアラビア文字の書家の他に挿絵画家、装飾家、製本家が分業で作業した。手書き写本の製本技術は15世紀のティムール朝の首都ヘラートで頂点を迎え、こうしたイスラーム世界の製紙や製本は、アンダルス時代のスペインや、イタリアの都市国家を経由してヨーロッパへと伝わった[12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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