ルネサンスの時代になり活版印刷が行われるようになってからも、都市の工房では装飾をほどこした写本が作られ、高値で取引されている。 西アジアでは、イスラームをきっかけとして写本文化が栄えた。それまでは口頭で伝えられていたクルアーンの全文を書き写し、650年(ヒジュラ暦30年)、第3代正統カリフのウスマーンの時代にクルアーン写本が完成した。この写本を基準として正典化事業が行われ、クルアーンの音読と書き方が定められ、基準に合わなかったものは廃止された。このためムハンマドの弟子が持っていた章句や配列が異なるバージョンや、方言の地域的バリエーションなどは廃止された[5]。 ウスマーン治世下の7世紀からアッバース朝の9世紀初頭までの写本が似ており、書体はヒジャーズ体 アッバース朝の首都バグダードでは大量の写本や翻訳が作られ、あわせて学問や文芸が活発になった。ワッラーク
西アジア・南アジアの写本「アルグン・シャーのための『クルアーン』」装飾ページ。1368-88年頃、マムルーク朝
クルアーン写本の始まり
写本・翻訳の普及
写本製作はイスラーム世界の各地に拡がり、イベリア半島のアンダルスのウマイヤ朝では、首都コルドバで常時170人の女性書家がクルアーンを筆写した[9]。科学分野においては、ギリシャの文献が翻訳されて写本が作られ、数学、天文学、占星術、気象学、光学、動物学、植物学、農学、鉱物学、医学、薬学、哲学、音楽などが継承された。このため、ギリシャ語では失われてしまった文献が、アラビア語で現存している場合もある[注釈 1][11]。 製本ではビザンツ帝国のシリアやエジプトの技術を取り入れて冊子体の書物を作り、現在の書籍の原型にもなった。写本は芸術品として王宮内の図書館の工房で製作され、芸術的なアラビア文字の書家の他に挿絵画家、装飾家、製本家が分業で作業した。手書き写本の製本技術は15世紀のティムール朝の首都ヘラートで頂点を迎え、こうしたイスラーム世界の製紙や製本は、アンダルス時代のスペインや、イタリアの都市国家を経由してヨーロッパへと伝わった[12]。
写本芸術の完成