円谷英二
[Wikipedia|▼Menu]
1916年(大正5年)、尋常高等小学校8年生の課程を修了した[12]。米国人飛行士アート・スミスが東京で曲芸飛行を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。

同年10月に上京[12]京橋区月島機械製作所に見習い入社するが、一月余りで退社[11][14][注釈 3]
操縦士を夢見て日本飛行学校へ

1916年(大正5年)11月には家族が大反対する中、操縦士を夢見て玉井清太郎相羽有が8月に創設したばかりの日本飛行学校に第一期生として入学[出典 4]。費用は当時の金で600円[注釈 4]したが、叔父の一郎が工面してくれた。

この第一期生応募者には稲垣足穂もいた。稲垣は自書『ヒコーキ野郎たち』でその際の円谷に言及しており[要文献特定詳細情報]、円谷も逝去時まで同著を意識した『ニッポン・ヒコーキ野郎』という企画を構想している。

1917年(大正6年)5月、日本飛行学校教官の玉井清太郎が帝都訪問飛行の際に機体の不備から墜落死。学校は唯一の飛行教官を失った。2機しかなかった飛行機の残り1機も、10月に東京湾岸全域で大きな被害を出した台風による高潮で格納庫もろとも流失。同校は活動停止[17]に陥り、円谷は夢は破れて退学した[出典 5]
進学と考案

同年、東京・神田の電機学校(現在の東京電機大学)の夜間部に入学[出典 5]。このころ、学費の足しに、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社で、玩具の嘱託考案係となり[出典 5]、「自動スケート(スケーター[18])」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、様々な玩具を考案した[12]。後の公職追放中も、様々な玩具や商品の発明・新案で糊口をしのいでいた。その中には「自動スピード写真ボックス」[注釈 5]なども含まれる[18]
映画界へ撮影用クレーンに乗る円谷英二(1934年) 国立映画アーカイブ所蔵 (2/9枚)

1919年(大正8年)、18歳[5][14]。電機学校修了後、新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」などが当たって「500円(当時)」という多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工たちを引き連れて飛鳥山に花見に繰り出した際、職工たちが隣席の者たちと喧嘩を始めた[出典 6]。年若い円谷が仲裁に入ったことで、喧嘩相手だった映画会社の天然色活動写真株式会社(天活)の枝正義郎に認められ、同社に入社しキャメラマンを志すようになり、映画界に入った[出典 7]

同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影[12]

1920年(大正9年)、19歳[5]。神田電機学校を卒業[12]。天活が国際活映(国活)に吸収合併されたことに伴い、国活巣鴨撮影所に入社[出典 8]

国活ではキャメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て、一人で見事成し遂げた功績から、短期間でキャメラマンに昇進した[13][14]

1921年(大正10年)、20歳。国活を退社し兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班に配属された[12][14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:371 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef