円谷英二
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[要出典]

1957年東宝特撮映画『地球防衛軍』などでは、圓谷英二の表記名でクレジットされていた。初期や終戦後の一時期には本名でも活動していた[8][9]。終戦後の本名名義は、戦争責任の追及を逃れるためであったとされる[9]
生涯
生い立ち

1901年明治34年)7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)で生まれた[出典 2][注釈 1]。生家は大束屋(おおつかや)という業を営む商家だった[11]

1904年(明治37年)、母セイが次男出産後に病死(享年19)[10][11]。婿養子だった父の白石勇は離縁され、祖母ナツに育てられた[10][11]。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がっていた[11]。ナツの家系には、江戸中期に日本へ銅版画洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がおり、後に英二は自身の手先の器用さは田善に由来するものであると考えていることを語っていた[11]

1908年(明治41年)、須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だったが、あまり外向的な子供ではなかったという。

1910年(明治43年)、東京の代々木錬兵場で徳川好敏日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功。これに強く感銘を受けた円谷は操縦士に憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する[出典 3]。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。

1911年(明治44年)、巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞し、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持ち始めた。自身の貯金で、子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を制作した[11]

1912年大正元年)、新聞に掲載された一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『福島民友』の取材を受ける[11]

1914年(大正3年)、尋常小学校高等科に入学。

1916年(大正5年)、尋常高等小学校8年生の課程を修了した[11]。米国人飛行士アート・スミスが東京で曲芸飛行を行い、この報道を受けてさらに飛行機熱を高める。

同年10月に上京[11]京橋区月島機械製作所に見習い入社するが、一月余りで退社[10][13][注釈 3]
操縦士を夢見て日本飛行学校へ

1916年(大正5年)11月には家族が大反対する中、操縦士を夢見て玉井清太郎相羽有が8月に創設したばかりの日本飛行学校に第一期生として入学[出典 4]。費用は当時の金で600円[注釈 4]したが、叔父の一郎が工面してくれた。

この第一期生応募者には稲垣足穂もいた。稲垣は自書『ヒコーキ野郎たち』でその際の円谷に言及しており[要文献特定詳細情報]、円谷も逝去時まで同著を意識した『ニッポン・ヒコーキ野郎』という企画を構想している。

1917年(大正6年)5月、日本飛行学校教官の玉井清太郎が帝都訪問飛行の際に機体の不備から墜落死。学校は唯一の飛行教官を失った。2機しかなかった飛行機の残り1機も、10月に東京湾岸全域で大きな被害を出した台風による高潮で格納庫もろとも流失。同校は活動停止[16]に陥り、円谷は夢は破れて退学した[出典 5]
進学と考案

同年、東京・神田の電機学校(現在の東京電機大学)の夜間部に入学[出典 5]。このころ、学費の足しに、叔父の一郎の知り合いが経営する内海玩具製作所という玩具会社で、玩具の嘱託考案係となり[出典 5]、「自動スケート(スケーター[17])」(足踏みギアの付いた三輪車)、「玩具電話」(電池式で実際に通話が可能。インターフォンとして使用できた)など、様々な玩具を考案した[11]。後の公職追放中も、様々な玩具や商品の発明・新案で糊口をしのいでいた。その中には「自動スピード写真ボックス」[注釈 5]なども含まれる[17]
映画界へ撮影用クレーンに乗る円谷英二(1934年) 国立映画アーカイブ所蔵 (2/9枚)

1919年(大正8年)、18歳[4][13]。電機学校修了後、新案の玩具「自動スケート」「玩具電話」などが当たって「500円(当時)」という多額の特許料が入り、祝いに玩具会社の職工たちを引き連れて飛鳥山に花見に繰り出した際、職工たちが隣席の者たちと喧嘩を始めた[出典 6]。年若い円谷が仲裁に入ったことで、喧嘩相手だった映画会社の天然色活動写真株式会社(天活)の枝正義郎に認められ、同社に入社しキャメラマンを志すようになり、映画界に入った[出典 7]

同年、天活作品『哀の曲』のタイトル部分を撮影[11]

1920年(大正9年)、19歳[4]。神田電機学校を卒業[11]。天活が国際活映(国活)に吸収合併されたことに伴い、国活巣鴨撮影所に入社[出典 8]

国活ではキャメラマン助手であったが、飛行機による空中撮影を誰も怖がって引き受けなかったところ、円谷が名乗り出て、一人で見事成し遂げた功績から、短期間でキャメラマンに昇進した[12][13]

1921年(大正10年)、20歳。国活を退社し兵役に就き、会津若松歩兵連隊で通信班に配属された[11][13]

1923年(大正12年)、22歳。除隊後、祖母の家業専念の誘いを拒み上京[11]。東京の撮影所は直前の関東大震災で壊滅状態であったが、国活に復帰[13]して『延命院の傴僂男』を撮影[注釈 6]。しかし、この作品は国活の凋落により未公開に終わった[2][8]

1924年(大正13年)、23歳。震災後、各映画撮影所が京都へ移転したことに伴い、京都に移住し、小笠原明峰小笠原プロダクションに移籍した[出典 9]


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