円谷英二
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福島県[1]岩瀬郡須賀川町(現在の須賀川市)出身[2]。本名は圓谷 英一(つむらや えいいち)[注釈 2]サイン
概要

昭和における特殊撮影技術の第一人者であり[5]、独自に作り出した技術で特撮映画界に多大な功績を残したことから、特撮の神様とも呼ばれる[6][7]。円谷の人生は、活動大写真と呼ばれた明治時代の黎明期から、映画斜陽期を迎えた東宝解体までの日本映画界の歴史と重なっている。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}一家は全員カトリック教徒で、英二の洗礼名ペトロ。墓所は東京都府中市のカトリック府中墓地にある。[要出典]

1957年東宝特撮映画『地球防衛軍』などでは、圓谷英二の表記名でクレジットされていた。初期や終戦後の一時期には本名でも活動していた[8][9]。終戦後の本名名義は、戦争責任の追及を逃れるためであったとされる[9]
生涯
生い立ち

1901年明治34年)7月7日、福島県岩瀬郡須賀川町(現:須賀川市)で生まれた[出典 2][注釈 1]。生家は大束屋(おおつかや)という業を営む商家だった[11]

1904年(明治37年)、母セイが次男出産後に病死(享年19)[10][11]。婿養子だった父の白石勇は離縁され、祖母ナツに育てられた[10][11]。また、5歳年上の叔父一郎が、兄のように英一を助け、可愛がっていた[11]。ナツの家系には、江戸中期に日本へ銅版画洋画を持ち込んだ亜欧堂田善がおり、後に英二は自身の手先の器用さは田善に由来するものであると考えていることを語っていた[11]

1908年(明治41年)、須賀川町立尋常高等小学校尋常科に入学。自宅敷地内の蔵の二階を私室としてあてがわれ、水彩画に没頭する。絵の腕は大人も驚く出来だったが、あまり外向的な子供ではなかったという。

1910年(明治43年)、東京の代々木錬兵場で徳川好敏日野熊蔵両大尉が飛行機により日本初の公式飛行に成功。これに強く感銘を受けた円谷は操縦士に憧れを持ち、模型飛行機の制作に没頭する[出典 3]。6年生になると、金属製の飛行機の発動機を製作するほどの飛行機少年だった。

1911年(明治44年)、巡業の活動大写真で『桜島爆発』を鑑賞し、映像よりも映写メカニズムに強く興味を持ち始めた。自身の貯金で、子供用映写機を購入し、巻紙を切ったフィルムで手製の映画を制作した[11]

1912年大正元年)、新聞に掲載された一枚の飛行機の写真を元に、精巧な模型飛行機を制作し、地元新聞の『福島民友』の取材を受ける[11]

1914年(大正3年)、尋常小学校高等科に入学。

1916年(大正5年)、尋常高等小学校8年生の課程を修了した[11]


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