円谷英二
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震災後、各映画撮影所が京都へ移転したことに伴い、京都に移住し、小笠原明峰小笠原プロダクションに移籍した[出典 9]

1926年(大正15年)、25歳[4]衣笠貞之助杉山公平らの衣笠映画聯盟設立(松竹傘下)とともに、連盟に所属[11][13]。『狂った一頁』の撮影助手を担当した[2][11]。なかなか本心を明かさず、酒が入ると「テヘラテヘラと笑う」円谷に、衣笠は「テヘラ亭」とあだ名を付けた。

1927年(昭和2年)、26歳[4]。林長二郎(長谷川一夫)初主演作である『稚児の剣法』(監督:犬塚稔)でキャメラマンを担当[出典 10]。林を多重オーバーラップさせる特撮手法などの特殊撮影の開発を採り入れた効果が大いに評価され、大成功を果たした[12][13]

1928年(昭和3年)、27歳[4]。正式に松竹京都下加茂撮影所にキャメラマンとして入社[出典 11]。『怪盗沙弥磨』が入社第1作となる[11]。『十字路』(衣笠貞之助監督)を、杉山公平とともに撮影するものの、その進歩的な撮影手法はリアリティ重視だったため、旧来の俳優からの反発を受け、あまり待遇のいい立場ではなかった[12]

1930年(昭和5年)、29歳[4]。自費を投入して、移動撮影車や木製の撮影用クレーンを自作する[13]。このクレーンで俯瞰撮影中に転落事故を起こし、その看病をしてくれた縁で知り合った荒木マサノ(当時19歳)と結婚[出典 12]し、下加茂撮影所裏の一軒家に居を構えた。

1931年(昭和6年)、30歳[4]。渡欧していた衣笠監督の帰国後1作目となる『黎明以前』を、杉山公平と共同で撮影[11][13]ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う[13]。4月23日、長男・が誕生[11]

このころ、「アイリス・イン、「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)や「フェイド・イン」「フェイド・アウト」、「擬似夜景」といった撮影手法を日本で初めて使用したほか、セットの奥行を出すために背景へのマット画の合成、ミニチュア合成場面の活用[13]、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行っている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費に注ぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒を奢る日々だった。

「一番のスタアである林長二郎の顔をリアルに黒く写した」としてその撮影手法が社内や俳優から反発を受け、撮影待遇を、セットもロケも格下の「B級」に落とされ、照明すら制限された。当時の時代劇映画は歌舞伎の延長にあって、映画的リアリティなど無視して二枚目歌舞伎役者たちの白塗りの顔をベタ光でくっきり映すものであり、こうした進歩的かつリアリティ重視の撮影手法はタブーだった[13]

円谷はこの冷遇の中、足りないライトで撮影したフィルムをネガを特殊現像で捕力したり、チャチなセットを立派に見せるため「グラスワーク」(キャメラの前に絵を描いたガラス板を置く手法)の開発や精度の向上したミニチュアワークを投入したりした[2][13]。本来は、このような冷遇状況から生まれた工夫だった。

またこのころ、研究資金と生活費の足しに、現像技術を生かした新案の「30分写真ボックス」を四条通大丸百貨店に売り込み、大丸二階に設置された写真ボックスは大評判になった。円谷は自らボックスに詰め、現像を行った。

1932年(昭和7年)、31歳[4]。「円谷英二」と名乗るようになる[4][13]。兄のように尊敬する5歳年上の叔父の名が「一郎」だったため、遠慮して「英二」と名乗ったという[11][13]

同年、杉山公平の音頭取りの下、酒井宏、碧川道夫、横田達之、玉井正夫ら京都の映画人たちと日本カメラマン協会を結成。11月、犬塚稔とともに日活太秦撮影所に引き抜かれて移籍[出典 13]

1933年(昭和8年)、32歳[4]


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