円谷一
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中でも、1962年に「東芝日曜劇場」で放送された『煙の王様』(脚本:生田直親)は、芸術祭文部大臣賞を受賞するなど高い評価を得た[8][5]。特に子供の描写が得意とされた[5]
ウルトラシリーズ

1963年、TBSがテレビ映画の自社製作を行なうために映画部門を新設すると、飯島敏宏中川晴之助らとともに映画部門に移籍する[8][5]。翌1964年には円谷プロダクション取締役に就任[8]。同年、TBS初の特撮テレビ映画『ウルトラQ』の制作にあたった[7][3][5]。『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』といった特撮番組監督を務め、奇抜な演出方法が周囲に理解されずTBSで干されていた実相寺昭雄を拾うなど、シリーズの隆盛に力を尽くした。

円谷一が『ウルトラマン』で監督を務めた「ミイラの叫び」や「オイルSOS」に登場する怪獣(ドドンゴペスター)は、彼の意見を採り入れ、いずれもぬいぐるみ着ぐるみ)に演技者が二人入る斬新な手法だった[5]
円谷プロ社長就任

1969年、父・英二の体調悪化によりTBSを退社し(最終肩書はテレビ本部編成局映画部副部長兼プロデューサー・副参事)、円谷プロダクションに入社[9]1970年、英二の病死により円谷プロダクションの2代目社長に就任[9][3][5]。財政難から、危機的な経営状況にあった同社の経営建て直しに奔走する。社長と監督は兼任できないと宣言して、以降はプロデューサーとして作品に携わるようになる。同年先述の理由により低予算で、『ウルトラファイト』の制作を開始。この番組の人気により、本格的な特撮番組を求める声が高まると、1971年に『帰ってきたウルトラマン』と『ミラーマン』(フジテレビ)をプロデューサーとして制作し、第二次怪獣ブームの火付け役となる。

以降、『ウルトラマンA』などの番組の制作にも携わるが、社長就任以降、営業や接待に奔走した結果、持病だった糖尿病、および高血圧が悪化[5]。妻と離婚し、赤坂のクラブのママと再婚するなど、生活も乱れた。1973年2月9日、起床直後に脳溢血を発症して突然倒れ、病院に搬送されたが間もなく死去[2][5][10]。享年41。父親の死からわずか3年後のことである。
怪獣供養

円谷プロは英二・一父子の相次ぐ死去や番組の失敗などの不幸が相次いだ。この厄払いの意味で1973年4月22日に二子玉川園において、同社で制作された番組で命を落とした怪獣達の供養が行われた。また、撮影で用いたぬいぐるみの火葬も執り行われた。これには円谷プロ関係者のほか、篠田三郎をはじめとする当時放送中の『ウルトラマンタロウ』・『ファイヤーマン』・『ジャンボーグA』の各出演者が列席し、司会は岸田森が行なった。
人物・エピソード
若手の才能を発掘

円谷一は、演出家は脚本を書くこともできなければならないとの考えから、ウルトラシリーズに携わった演出家に数多くの脚本を書くことを勧めている。


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