1995年6月11日、円谷皐が死去により、円谷一夫が4代目社長に就任。その後、円谷プロダクションの株式過半数は円谷一夫に相続された[6]。
2001年、特撮テレビシリーズの本格的再開により、制作費は増加してしまった。しかし、その一方で大ヒットに恵まれなかったこと、東宝からの離反に伴いかつての後ろ盾であった三和銀行が抜けたため、経営基盤が弱体化してTBSとの関係が悪化してしまう[7]。
2002年2月、円谷プロダクションを退社していた円谷粲が再入社して副社長に就任[8]。
2003年、円谷一夫が辞任して円谷昌弘が5代目社長、円谷一夫が代表権を持つ会長、円谷英明が専務に就任。一方で専務取締役の高野宏一は、この過程でバンダイの乗っ取りに加担するクーデターを計画したとして、辞表を出すように要求されて退社する事態となった[9]。
2004年6月、円谷昌弘が女性社員へのセクハラで辞任して円谷英明が6代目社長に就任[10]。経理の正常化を目指した円谷英明も1年後に役員会で解任動議が出されて、円谷プロダクションの株式を持つ会長の円谷一夫の同意により解任。東宝不動産の取締役だった大山茂樹が7代目社長に就任[11]。
2007年2月、期決算で売上高約56億円に対して当期純利益は約4400万円にとどまった。累積赤字の膨張による倒産を危惧した役員は、円谷一夫から制作部の円谷昌弘への社長交代を要求。6月、取締役会で大幅なリストラを主張していた大山は解任されて円谷一夫が8代目社長に就任[12]。 銀行からの融資がストップしたため、30億円の累積赤字を抱えて倒産の危機に直面。10月、非常勤取締役の森島恒行 TYOによる内部的な組織改革などが進み、これらと並行して円谷プロダクションとは『ウルトラシリーズ』で強い縁を持つバンダイナムコグループが資本参加。 2008年1月21日、TYOは持ち株のうち、33.4%をバンダイナムコグループの子会社であるバンダイに譲渡売却。10月、森島が辞任して大岡新一が10代目社長に就任。 2009年7月、さらなる株式譲渡が行われて(バンダイ持ち株比率は49%)、バンダイナムコグループの円谷プロダクションにおける経営発言力が増した。この間に円谷一夫は会長から名誉会長へ退き、その名誉職も退任となり、これで円谷家は経営から一切排除された。 2010年4月2日、TYOは保有する円谷プロダクションの株式51%をフィールズに売却して、円谷プロダクションはフィールズの連結子会社となった[14][15]。2014年3月期に2007年ごろから続いてきた債務超過を解消[16]。 2017年8月1日、大岡が辞任して塚越隆行 2022年10月、フィールズがグループ会社を含めた持株会社制に移行するのに伴い、円谷プロダクションは円谷フィールズホールディングスの連結子会社となった。3月の時点でフィールズの営業利益のうち、4割近くを円谷プロダクションが占めている。
TYOの連結子会社化
バンダイナムコグループの資本参加
フィールズの連結子会社化
円谷フィールズホールディングスの連結子会社化
沿革
1948年(昭和23年)
太平洋戦争中に戦意高揚映画を撮影したことから公職追放指定を受けて、東宝を依願解雇された円谷英二が自宅に円谷映画特殊技術研究所を設立[17][18]。
1950年(昭和25年)
円谷英二が東宝に嘱託として復帰[18]。円谷映画特殊技術研究所の名称を円谷研究所に改称して東宝撮影所のスタジオ内に移転[17][18]。
1952年(昭和27年)
円谷英二が公職追放を解除されて東宝に正式復帰[17][18]。
1956年(昭和31年)
円谷英二が自宅の敷地に個人的な組織として円谷特技研究所を設立[19][18][20]。
1959年(昭和34年)
佐川和夫と中野稔が所属して関沢新一の門下生であった脚本家の金城哲夫も参加して、同年に放送された毎日放送の連続テレビ映画『鉄腕アトム』の特撮パートを松崎プロダクション
1962年(昭和37年)
円谷特技研究所が東宝スタジオ内の小さな建物に移転[19][18][20]。
1963年(昭和38年)
4月12日 - 円谷特技研究所を法人化して株式会社円谷特技プロダクションを設立[21][17][19][18][20]。
8月 - 撮影助手として鈴木清が、撮影技師として東宝出身で共同テレビジョンのニュースカメラマンであった高野宏一が参加[19][18]。