円谷プロダクション
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1992年、TBSへ期限付きで譲渡していた『ウルトラシリーズ』の販売権や窓口権が戻ってくると、これらの権利を担保に得た資金で、円谷プロダクションの株式を円谷皐が15%、皐が設立した円谷エンタープライズが45.5%を取得して東宝との資本関係を解消。円谷皐が円谷プロダクションの株式過半数を握るオーナー社長として円谷プロダクションを運営していた[5]

1995年6月11日、円谷皐が死去により、円谷一夫が4代目社長に就任。その後、円谷プロダクションの株式過半数は円谷一夫に相続された[6]

2001年、特撮テレビシリーズの本格的再開により、制作費は増加してしまった。しかし、その一方で大ヒットに恵まれなかったこと、東宝からの離反に伴いかつての後ろ盾であった三和銀行が抜けたため、経営基盤が弱体化してTBSとの関係が悪化してしまう[7]

2002年2月、円谷プロダクションを退社していた円谷粲が再入社して副社長に就任[8]

2003年、円谷一夫が辞任して円谷昌弘が5代目社長、円谷一夫が代表権を持つ会長、円谷英明が専務に就任。一方で専務取締役の高野宏一は、この過程でバンダイの乗っ取りに加担するクーデターを計画したとして、辞表を出すように要求されて退社する事態となった[9]

2004年6月、円谷昌弘が女性社員へのセクハラで辞任して円谷英明が6代目社長に就任[10]。経理の正常化を目指した円谷英明も1年後に役員会で解任動議が出されて、円谷プロダクションの株式を持つ会長の円谷一夫の同意により解任。東宝不動産の取締役だった大山茂樹が7代目社長に就任[11]

2007年2月、期決算で売上高約56億円に対して当期純利益は約4400万円にとどまった。累積赤字の膨張による倒産を危惧した役員は、円谷一夫から制作部の円谷昌弘への社長交代を要求。6月、取締役会で大幅なリストラを主張していた大山は解任されて円谷一夫が8代目社長に就任[12]
TYOの連結子会社化

銀行からの融資がストップしたため、30億円の累積赤字を抱えて倒産の危機に直面。10月、非常勤取締役の森島恒行の紹介により、CM映像のコンテンツ製作などを手がけるTYOから、当面の資金繰りのための数千万円の融資を受けた。しかし、それを返済できなかったため、TYOが担保になっていた円谷エンタープライズの株の過半数を取得。さらにTYOが第三者割当増資で取得した株と合わせて、円谷エンタープライズの株式の80%を保有して筆頭株主となった。また、円谷一夫が保有していた円谷プロダクションの株式22.5%を円谷エンタープライズに譲渡することにより、円谷エンタープライズにおける円谷プロダクションの株保有比率を45.5%から68%に引き上げた。これらのプロセスを経て、TYOは円谷プロダクションの経営権を取得してTYOの連結子会社となった[13]。円谷一夫は解任されて森島が9代目社長に就任。TYOの経営参画後円谷一夫が円谷プロダクションと円谷エンタープライズの会長として残ったものの、設立から続いてきた円谷家による同族経営に終止符が打たれた。
バンダイナムコグループの資本参加

TYOによる内部的な組織改革などが進み、これらと並行して円谷プロダクションとは『ウルトラシリーズ』で強い縁を持つバンダイナムコグループが資本参加。

2008年1月21日、TYOは持ち株のうち、33.4%をバンダイナムコグループの子会社であるバンダイに譲渡売却。10月、森島が辞任して大岡新一が10代目社長に就任。

2009年7月、さらなる株式譲渡が行われて(バンダイ持ち株比率は49%)、バンダイナムコグループの円谷プロダクションにおける経営発言力が増した。この間に円谷一夫は会長から名誉会長へ退き、その名誉職も退任となり、これで円谷家は経営から一切排除された。
フィールズの連結子会社化

2010年4月2日、TYOは保有する円谷プロダクションの株式51%をフィールズに売却して、円谷プロダクションはフィールズの連結子会社となった[14][15]2014年3月期に2007年ごろから続いてきた債務超過を解消[16]

2017年8月1日、大岡が辞任して塚越隆行が11代目社長に就任。2019年4月1日、塚越が辞任して永竹正幸が12代目社長、塚越は会長に就任。
円谷フィールズホールディングスの連結子会社化

2022年10月、フィールズがグループ会社を含めた持株会社制に移行するのに伴い、円谷プロダクションは円谷フィールズホールディングスの連結子会社となった。3月の時点でフィールズの営業利益のうち、4割近くを円谷プロダクションが占めている。
沿革

1948年昭和23年)

太平洋戦争中に戦意高揚映画を撮影したことから公職追放指定を受けて、東宝を依願解雇された円谷英二が自宅に円谷映画特殊技術研究所を設立[17][18]


1950年(昭和25年)

円谷英二が東宝に嘱託として復帰[18]。円谷映画特殊技術研究所の名称を円谷研究所に改称して東宝撮影所のスタジオ内に移転[17][18]


1952年(昭和27年)

円谷英二が公職追放を解除されて東宝に正式復帰[17][18]


1956年(昭和31年)

円谷英二が自宅の敷地に個人的な組織として円谷特技研究所を設立[19][18][20]


1959年(昭和34年)

佐川和夫中野稔が所属して関沢新一の門下生であった脚本家の金城哲夫も参加して、同年に放送された毎日放送の連続テレビ映画『鉄腕アトム』の特撮パートを松崎プロダクションから受注する[19][18]


1962年(昭和37年)

円谷特技研究所が東宝スタジオ内の小さな建物に移転[19][18][20]


1963年(昭和38年)

4月12日 - 円谷特技研究所を法人化して株式会社円谷特技プロダクションを設立[21][17][19][18][20]

8月 - 撮影助手として鈴木清が、撮影技師として東宝出身で共同テレビジョンのニュースカメラマンであった高野宏一が参加[19][18]


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