円太郎バス
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明治時代の乗合馬車は通称、円太郎馬車[2]と呼ばれていた。円太郎とは落語家4代目橘家圓太郎(1845―1898)から来ている[3]。それをもじって関東大震災後の間に合わせの東京市営バスも次第に円太郎バスと呼ばれるようになった。
運用

フォードの協力もあり、シャーシの第一便は1923年内に日本に来着。円太郎バスは震災後わずか4か月後の翌1924年(大正13年)1月から運行された。当初は2系統であったが、年末までに800両が揃い計20系統で運用された。路面電車運転士などが緊急に自動車免許を取得、運行に当たった[4]。小型ということもあって車掌の乗務は省略され、結果的にバスのワンマン運転としては日本でも早い事例になった。

路面電車の復旧進行に伴い、バスの運行は縮小されていくはずであったが、震災前から「東京名物満員電車」と呼ばれたほどに路面電車の輸送力が逼迫しており、東京市民からは新たな交通機関であるバス輸送の存続が希望された。そのため、東京市では円太郎バスのフォードTTに、より本格的なバスボディの架装を施して居住性を改善したほか、当時の標準であった車掌乗務も実施し、更に新しく大型のバスを増やすなどの対策に取り組み、21世紀初頭における都営バスにまで連なるバス輸送の源流となった。
意義

急造とはいえ大量導入されたバスは、日本でも公共交通機関として十分に機能することを証明することとなり、後年、日本各地の都市で路線バスが運行される契機となった。こうした背景が評価され、1955年より円太郎バスは交通博物館で保存されることとなった[5]

保存個体は、大正末期に東京市内小石川の肢体不自由児施設「柏学園」に払い下げられ、園児の送迎に用いられていたため、原型から大きな改造を受けずに太平洋戦争後まで残ったもので、柏学園から交通博物館に寄贈された。

交通博物館の閉館後、2007年からは鉄道博物館の所蔵として東京都交通局西高島平駅倉庫に保管しており[6]、非公開とされている[5]。同車は2008年に機械遺産28番に認定された[7]。加えて2020年度には重要文化財に指定されている[8]
関連項目

日本のバス車両

レールバス (T型フォードを利用して鉄道車両を製作した例)

阪神1形電車 - 震災復興のため東京市電気局が譲り受け、2500形として運用した。

脚注[脚注の使い方]^ エンジンを同じくする乗用車型のモデルTよりもシャーシ全長が長く、低速・重量仕様になっていた。
^ 円太郎馬車(読み)エンタロウバシャコトバンク
^ 円太郎は乗合馬車の時代にスターとなった落語家。乗合馬車は、御者がラッパを吹きながら乗合馬車を進ませた。4代圓太郎は、寄席で自らが高座に入場する際に、出囃子替わりに馬車の御者のラッパを吹きながら入場したことがバカウケし、圓太郎は一躍スターとなり、(馬車が「円太郎」と呼ばれただけでなく)自身も「ラッパの圓太郎」の異名をつけられた
^ フォードT型・TT型は前進2段・後進1段の変速機をペダル踏み替えのみで操作できる操縦容易な設計で、当時の他の自動車に比べて運転が習得しやすいという有利な特徴があった。
^ a b 一般社団法人 日本機械学会. “ ⇒機械遺産 円太郎バス(フォードTT型)”. 2015年10月31日閲覧。
^ “文化審議会答申 ?国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定及び登録有形文化財(美術工芸品)の登録について?”. 文化庁. 2020年3月19日閲覧。
^ 一般社団法人 日本機械学会. “ ⇒日本機械学会認定「機械遺産」の所在地及び連絡先一覧”. 2015年10月31日閲覧。
^ 令和2年9月30日文部科学省告示第118号。

外部リンク

『東京市電気局震災誌』
(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)

機械遺産 円太郎バス(フォードTT型)(一般社団法人 日本機械学会)


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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