内部マケドニア革命組織
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そして最後に、この対立する国々のプロパガンダの間には大きな違いがある。すなわち、ブルガリア人はマケドニアの自治のために働くが、セルビア人とギリシャ人はマケドニアを自国に併合することのみを目指しているということだ。その結果として、「マケドニア人の民族意識」が間違いなくブルガリア人によって作り上げられた物である中、マケドニア人の活動は彼ら自身の国を求めるようになったのだ。セルビア人の動きは純粋に扇動であり、ベオグラードによって動かされ資金を供給されたものであるのに対し、ソフィアへのシンパシーはあるものの、ブルガリアの革命組織は真にマケドニア人の組織であった。 ? [18]

何がより重要かと、組織の若い指導者たちは過激な社会主義者や無政府主義者の考えを擁護し、彼らの目的がブルガリアとひとつになることよりも新しい形式の政府を打ち立てることであるという姿勢を見せた。結局は、このような考え方によって組織の規則は変更され、メンバーはブルガリア人のみではなく、民族や信仰の別に関わらず全てのマケドニア人とアドリアノープル人であるとした。それでも実際には、ヴラフ人を除いては、メンバーたちはブルガリア正教会の圧倒的な影響下に置かれていた[19]ブルガリア人の「内部マケドニア革命組織」メンバーがオスマン帝国の警察に逮捕された映像

革命運動における社会主義者とコスモポリタンの考え方に関して、アメリカ人アルバート・ソニクセンは次のように述べている。私が思うに、それは彼らが心の中に留めていた概念的な思想の力であり、狂信的愛国主義とは程遠いものであった。なぜなら、彼らにとっての自由はブルガリアによる統治よりも崇高であり、彼らにとってブルガリア人、ギリシャ人、トルコ人と完全に対等になれる完璧な仕組みであり、全世界が目指すべきある種の天国であったのだ。 ? [20]

現代のブルガリアの歴史家は、内部マケドニア革命組織の右派の支持者はの考えるマケドニアの自治の最終的で自然な行く末は、独自国家の建設よりもはるかにブルガリアとの統一に傾いていたと主張している。彼らは、イリンデン蜂起の際の第2マケドニア・アドリアノープル革命地区の指導者であったダミアン・グルネフとボリス・サラフォフからブルガリア政府にあてた公式の手紙から次のように引用している。ここにいる多感で精力的な、血のつながった同族の兄弟たちが、現在のブルガリアの大地を脅かすような環境と危険の中に身をおかざるを得ない状況に対して、誉あるブルガリア政府がなんらその責務を果たさないのならば、それはブルガリア国家に対して壊滅的な結果となるであろうと、メンバーたちはその責務としてブルガリア政府の行動に注目しております。 ? [21]

第一次世界大戦におけるマケドニア戦線(1915年-1918年)では、組織はブルガリア軍に協力し、ヴァルダル・マケドニア(セルビア領マケドニア。後のマケドニア共和国)をブルガリアが占領した際は、ブルガリアの一時的な占領統治機構に加わっている。この間、政治的戦略として自治の目標はすべての内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の流派で停止され、彼らはブルガリアとの統一主義者と立場を共有し、ブルガリアによるマケドニア併合を支持した[22]
オスマン帝国時代
オスマン帝国に対する武装抵抗

内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の思想段階であった初期の時代は、1897年、オスマン帝国警察によってブルガリア国境近くで秘密の弾薬の貯蔵庫が発見されたことにより終わりを迎えた。委員会の活動家に対する広範な弾圧によって、組織はやがて武装ゲリラ組織へと変貌していった。組織はオスマン帝国の当局への攻撃や、離反者に対する懲罰を加える活動に従事するようになった。1903年以降、ゲリラ組織としての内部マケドニア・アドリアノープル革命組織はチェタ(複数形でチェティчети、cheti)と呼ばれ、ギリシャによるマケドニア戦役(en)の際には親セルビア派、親ギリシャ派の武装組織とも戦った。フロリナにて。VMROの革命家たち 1903年フリスト・チェルノペエフの武装組織 1903年

内部マケドニア革命組織の革命運動の指導体制は、2つの党派によって脅かされていた。ひとつはソフィアにある至上マケドニア・アドリアノープル委員会(Върховен македоно-одрински комитет、Vurhoven мakedono-оdrinski komitet)、もうひとつは少数のテッサロニキのブルガリア人の保守主義者たちであった。後者は1902年に組織に統合されたが、そのメンバーたちは組織に影響を及ぼした。彼らは、1903年の7月から8月にかけてのイリンデン蜂起を扇動し、やがて内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の右派の中心を構成するようになっていった(この年のグレゴリオ暦8月2日ユリウス暦7月20日の聖エリヤの日であり、イリンデンとは聖エリヤの日を意味する)。

前者の至上マケドニア・アドリアノープル委員会はブルガリアで組織され、1895年にトルコの領土を襲撃したことにより内部マケドニア・アドリアノープル革命組織よりも古くからその存在が知られていた。この組織の設立者たちはブルガリアに住むマケドニアからの移民とブルガリアの軍人たちであった。彼らは「至上主義者」、あるいは彼らがマケドニアの外で結成されたことをさして「部外者」として知られるようになった。「至上主義者」たちはテロリズムによって戦争を誘発し、それによってブルガリアがマケドニアを併合することを望んでいた。1890年代末には、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の指導者たちは至上マケドニア・アドリアノープル委員会の指導部をのっとりを試みたが、やがて至上委員会は2つの派閥に分裂した。1つは内部マケドニア・アドリアノープル革命組織に忠実な集団で、他方はブルガリア大公に近いブルガリアの当局の関係者である。後者は1902年の東マケドニア蜂起において、地元の内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の部隊に対して軍事的反抗を行い、致命的な打撃を負った。そこで部隊を率いていたのは、のちに内部マケドニア革命組織の左派の指導者になるヤネ・サンダンスキ(Yane Sandanski)やフリスト・チェルノペエフ(Hristo Chernopeev)であった[23]

1903年の春、アナーキストの集団が内部マケドニア・アドリアノープル革命組織とゲミジイ・サークル(Gemidzhii Circle)とよばれる集団を結びつけた。このグループはテッサロニキのブルガリア人中等学校の卒業者で構成され、列強諸国に対してマケドニアや東トラキアでの反オスマン運動への関心を向けさせる目的で、1903年のテッサロニキ爆破事件を引き起こしている。同じ頃、内部マケドニア革命組織の指導者であったゴツェ・デルチェフが、オスマン軍との衝突の中で殺される事件が発生した。デルチェフは武装蜂起が時期尚早であるとして反対していたにもかかわらず、その路線に対して賛成を余儀なくされ、それでもその開始時期を5月から8月に遅らせるように策動した。デルチェフの死後、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織はマケドニアとアドリアノープル州での反オスマン帝国運動としてイリンデン蜂起を計画した。蜂起は直後にはクルシェヴォ共和国(Krushevo Republic)の形成などの成功をあげたものの、多くの人命が失われて失敗に終わった。
イリンデン蜂起以降

1903年のイリンデン蜂起の失敗は、セレス(Seres)およびストルミツァ(Strumica)地区の内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の左派(連邦主義者)と、サロニカ(後のテッサロニキ)、モナスティル(Monastir)、ユスキュブ(後のスコピエ)地区を中心とする右派(中央主義者)の2派閥に分裂した。左派はブルガリアのナショナリズムに反対し、全ての市民と民族が互いに対等の「バルカン社会主義連邦」の創設を主張した。至上マケドニア・アドリアノープル委員会は1905年に解散したものの、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の右派はますますブルガリアのナショナリズムへの傾倒を強め、他方この地域では1903年以降ギリシャ人やセルビア人の武装集団が浸透をはじめ、増大するその侵入に曝されていた。1905年から1907年にかけて、内部マケドニア・アドリアノープル革命はオスマン帝国軍やギリシャ人、セルビア人の武装勢力との多くの激しい戦闘に見まわれた。そして、1907年にトドル・パニツァ(Todor Panitsa)が右派の活動家ボリス・サラフォフ(Boris Sarafov)およびイヴァン・ガルヴァノフ(Ivan Garvanov)を殺害したことにより、内部マケドニア革命組織の分裂状態は終息を迎えた[24]


1908年青年トルコ人革命の後、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の両派閥はともに武器を降ろし、合法闘争へと移行した。連邦主義者の派閥は1908年の青年トルコ人革命を歓迎し、後に人民連邦党(ブルガリア人部門)の一員として政治活動の主流へと加わっていった。サンダンスキやチェルノペエフといったその指導者たちはイスタンブールにおける反革命的な動きを止めるための行進に加わった。一方、かつての中央主義者の派閥はブルガリア人憲法クラブを結成し、人民連邦党と同様にオスマン帝国の選挙に加わって入った。やがて、しかし、青年トルコ人革命の体制は国粋主義的色彩を強め、マケドニアやトラキアにおける非トルコ系民族による民族主義志向に対して圧力を加える道を模索するようになっていった。これに反応した内部マケドニア革命組織の最右翼、および最左翼の指導者たちは1909年、再び武力闘争路線へと舵を切りった[25]1911年、新しい内部マケドニア革命組織の中央委員会が組織された。そのメンバーはトドル・アレクサンドロフ(Тодор Александров、Todor Alexandrov)、フリスト・チェルノペエフ(Христо Чернопеев、Hristo Chernopeev)、ペタル・チャウレフ(Петар Чаулев、Petar Chaulev)であった。この委員会の目的は組織の再統一を図り、より効果的なトルコ人に対する武力闘争へと向けることであった。チェルノペエフが1915年、ブルガリア側の軍人として第一次世界大戦で戦う中で死亡してからは、その後継の地位にはかつての「至上主義者」の指導者であったアレクサンドル・プロトゲロフ(Александър Протогеров、Aleksandar Protogerov)がおさまった。1913年のマケドニアおよびアドリアノープルの分割(中央の色の濃い部分が、オスマン帝国からギリシャ、セルビア、およびブルガリアにそれぞれ引き渡された部分)

バルカン戦争の間、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の右派および左派の双方のかつての指導者たちはマケドニア・アドリアノープル義勇軍に参加し、ブルガリア軍の側に加わって参戦した。その他、サンダンスキの武装隊などは、その地の利を生かし、ブルガリア軍のカストリア(Kastoria)への浸透などを補助した[26]。第二次バルカン戦争においては、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の武装隊はギリシャ軍やセルビア軍と対峙したが、やがて追われて締め出された。また、ペタル・チャウレフは1913年のオフリド蜂起の指導者であった。オフリド蜂起は内部マケドニア・アドリアノープル革命組織と西部マケドニアのアルバニア人組織が共同で企画した武装蜂起であった。

バルカン戦争の結果、マケドニア地方とアドリアノープル・トラキア地方はギリシャ、セルビア、ブルガリアにより分割された(なお、1918年セルビア・クロアチア・スロヴェニア王国、後のユーゴスラビアが建国され、セルビアはその一部となっている)。ブルガリアはこの中で最小の領土を得るにとどまった。1913年の第二次バルカン戦争中およびその直後にかけて発生したオスマン帝国領トラキアからの大規模なブルガリア人追放・浄化(The Destruction of Thracian Bulgarians in 1913を参照)が発生した[27]。トドル・アレクサンドロフ(Тодор Александров、Todor Aleksandrov)が指導者の座についた内部マケドニア・アドリアノープル革命組織はブルガリアでの存在感を強め、ブルガリアでの民族統一主義を高めマケドニアをブルガリアによって武力解放するための戦争へと駆り立てる上で重要な役割を果たした。これは、1915年第一次世界大戦においてブルガリアがドイツ帝国およびオーストリア=ハンガリー帝国と同盟を結びセルビアと対決した要因のひとつとなった。第一次世界大戦では、内部マケドニア・アドリアノープル革命組織はセルビア軍に対する大規模な攻撃であるヴァランドヴォ(Valandovo)攻撃を仕掛けた。ブルガリア軍は内部マケドニア・アドリアノープル革命組織を軍事的に支援し、戦争初期においてはセルビア軍をヴァルダル・マケドニア(後のマケドニア共和国の領域)から締め出し、ギリシャ・セルビア国境あたりに到達するなど成果を挙げたものの、その後1918年の終戦まで戦線は膠着し、この場所はマケドニア戦線(en)と呼ばれた。


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