内田勝
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また、W3事件を契機に劇画路線を推進して[4]水木しげる[5]谷岡ヤスジを発掘し、さらにはテレビとのメディアミックスや図解特集、グラビアページを担当した大伴昌司を見出した功績も大きい[6]

1971年に『週刊ぼくらマガジン』休刊とともに、部数が急落していた『週刊少年マガジン』編集長を宮原照夫に任せ[6]、『月刊現代』の編集長を1年半担当する。その後、新雑誌開発室を立ち上げ、早稲田編集企画室の黒木純一郎(女優・松原智恵子のご主人)や株式会社プラントピアの代表でアートディレクターの首藤進とnon-noとananに対抗する雑誌を立ち上げるためのプロジェクトを組んで、一年半ほど取り組んだが首藤進が離脱したことで断念した。その間、フランスなどに取材班が飛んでおり、原稿も入ってきていたが、中断することとなった。その後、『世界一流品大図鑑』などの講談社MOOKシリーズ、青年誌『ホットドッグ・プレス』の創刊編集長を歴任した。

1994年、担当役員だった『DAYS JAPAN』の休刊事件の責任をとって、講談社を退社した。株式会社コミックギャラリーを設立して、同年に徳間書店月刊マンガボーイズ』を創刊し、編集長として腕をふるうも1年で休刊した。その後、ソニー・マガジンズのスーパーバイザーに就任する。1998年に開局のアニメ専門チャンネル、アニマックスの立ち上げに参加し、顧問を務めた。2007年4月2日、(株)ソニー・デジタルエンタテインメント ⇒[1]の顧問に就任した。

2008年5月30日、肺がんで死去した。享年73。
著書

「奇」の発想―みんな『少年マガジン』が教えてくれた(1998年、三五館刊)
ISBN 4-88320-146-5

ヤスジのメッタメタガキ道講座―もうひとつの「少年マガジン黄金時代」(2004年、実業之日本社刊、谷岡ヤスジ作、内田勝監修)ISBN 4-408-61237-5

脚注[脚注の使い方]^ 武居俊樹『赤塚不二夫のことを書いたのだ』文藝春秋、2005年、p33、p119.
^ 「宇宙塵四十年史」編集委員会『塵も積もれば…宇宙塵40年史』出版芸術社、1997年、p46-p47.
^ 平井和正「さらばスパイダーマン(1)」『夜にかかる虹 上』リム出版、1990年、p262。
^ 夏目房之介『マンガに人生を学んで何が悪い?』ランダムハウス講談社、2006年、p51
^ 夏目房之介『笑う長嶋』太田出版、1998年、p196.
^ a b 夏目房之介『マンガの深読み、大人読み』イースト・プレス、2004年、p228.

先代
創刊月刊少年マガジン編集長
初代次代
宮原照夫










週刊少年マガジン編集長


牧野武朗1959-1964

井岡秀次1964-1965

内田勝1965-1971

宮原照夫1971-1978

三樹創作1978-1986

五十嵐隆夫1986-1997

野内雅宏1997-2004

工富保2004-2005

森田浩章2005-2013

菅原喜一郎2013-2017

栗田正俊2017-

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