内海賢二
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中学時代は世界中を周る船乗りになりたく、野球選手にも憧れていた[18]。放送部に所属していた[18]。中学・高校には仕出し弁当店で住み込みで働き、夜間で通った高校では演劇部に所属[2]
キャリア

兄がNHK小倉放送局でラジオドラマのミキサーをしており、高校時代に何回か見学に行っていた[2][3][10][19]。高校3年生時の1955年、役者になろうという気は毛頭なかったが、それが縁で兄が勧めてもらったNHK小倉放送局の専属劇団に応募して合格[2][3][19]。入れたのは、「ただ人より声が大きい」というだけの理由であり、「あいつはヘタだけど、とりあえず声がでかい。声が出ることはいいことだ」とその原石を認めてくれた人物がいたことから入れたという[19]ラジオドラマや朗読の仕事を始めるようになる[15][16]。やがて、福岡県に開局したばかりの九州朝日放送に移籍しKBCラジオの専属声優になった[16]

だが、地方での仕事に限界を感じたことから、広告代理店の電通でテレビ映画制作の仕事をしていた友人を頼り1958年に上京[2]。その友人の紹介で、子供向けドラマ『熱血カクタス』(柴田秀勝主演)にて端役をもらい、続けて『海賊バイキング』ではナレーターを担当[2]。中央でのデビューを果たした[2]。当初は新宿ゴールデン街でアルバイトをしながら舞台俳優として里吉しげみ主宰の劇団未来劇場の公演などに出演していたが、飲みに来た演出家にスカウトされ吹替に参加[20][信頼性要検証]、自然と声優業が増えたという[21]。アテレコを始めた頃は、劇場で映画を見ながら声までは出さないが思わず口合わせており、映画を冷静に客観的に見られず嘆いていたという[15]。その後もフランス語、ドイツ語、ロシア語を吹き替える時、多少戸惑っていたという[15]

アニメデビュー作は、1963年に放送された『狼少年ケン』での片目のジャック役[22]東映動画初のテレビアニメであり、以降はアニメ声優でも草分け的存在になる。また、本人曰く「マルチな役者」を目指していたことで[22]吹き替え出演やナレーターとしても活動し、以前からの舞台俳優としての活動のほか、1960年代から1970年代にかけては多くのテレビドラマにも顔出し出演している。

かつては、九州NHK放送劇団、未来劇場、東京アーティストプロダクション、東京俳優生活協同組合[6]、楡プロダクションに在籍した[13][15]
私生活

1973年、『宇宙エース』や『マッハGoGoGo』での共演をきっかけに知り合った声優の野村道子結婚。挙式は中村正夫妻を媒酌人として、アメリカ合衆国ハワイ州の白い教会で行われていたという[2]。当時所属していた事務所の社長が事故で死亡したが、しばらくは恩義があるため、その事務所に所属していた[6]。「多分これでもう社長への恩は返しただろう」ということで、退所[6]。その時に、「せっかく新しいところへ移るんなら、やっぱり映像の分野じゃなくて声の方がいいだろう、それだったら自分で事務所をやった方がいいかな」と考えて、1984年には賢プロダクションを設立[6][23]。自身のマネージメントとともに、野村の協力も得て後進の育成にもあたるようになる。これらの幅広い活動から、1980年代には長者番付に名を連ねたこともあった[24]
晩年・死後

その後も第一線で活動。長年に渡り多くのジャンルで貢献したことから、2009年に第三回声優アワード功労賞を受賞[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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