安土桃山時代の豊臣政権下、五大老筆頭で最大の大名であった徳川家康も叙任された。以後も徳川家光等の歴代将軍が任命されている。江戸時代に入ると禁中並公家諸法度によって内大臣は三公には含まれないものとされ、宮中座次も三公、宮家親王、三公経験者の下に置かれた。更に摂家の昇進が優先された結果、摂家が大臣職を独占する時期が長期化したため、清華家といえども任官されることが困難となり、摂家の内大臣の交替の合間に数日から数ヶ月間、非摂家の長老もしくは功労者・外戚などなどの特殊な立場にあった者が交替で任官される場合もあるなど、その政治的権威は降下していった[9]。明治維新に際して廃止されたが、1885年に内大臣府が創設された。
内大臣の一覧
原則『公卿補任』に基づき、適宜別史料によって補訂した。南朝での補任者は史料に在職徴証がある人物のみ掲出した。
藤原房前・藤原仲麻呂・道鏡は内大臣には就任していないが、内廷に近侍する同様の重職に就任した者として掲出した。
名就任辞任
(※印は死没と同日)在職時の天皇号・典拠
内臣に大臣格が付与された官職としての内大臣
藤原鎌足皇極天皇4年6月14日[10]
(645年7月12日)天智天皇8年10月16日※
(669年11月14日)孝徳、斉明、天智初め内臣
藤原内大臣
藤原房前養老5年10月24日
(721年11月18日)天平9年4月17日※
(737年5月25日)元正、聖武内臣
藤原仲麻呂天平勝宝9歳5月20日
(757年6月11日)天平宝字2年8月25日
(758年10月1日)孝謙、淳仁紫微内相
道鏡天平宝字8年9月20日
(764年10月19日)天平神護元年10月1日
(765年10月19日)淳仁、称徳大臣禅師
藤原良継宝亀2年3月13日[11]
(771年4月2日)宝亀8年9月18日※
(777年10月23日)光仁初め内臣
弘福院
藤原魚名宝亀9年3月3日[12]
(778年4月4日)天応元年6月27日
(781年7月22日)光仁、桓武初め内臣・忠臣
令制の左大臣・右大臣に次ぐ官職としての内大臣
藤原高藤昌泰3年1月28日
(900年3月2日)昌泰3年3月12日※
(900年4月13日)醍醐小一条、勧修寺
藤原兼通天禄3年11月27日
(973年1月4日)天延2年2月28日
(974年3月24日)円融堀川
藤原道隆永延3年2月23日
(989年4月1日)正暦2年7月23日
(991年9月4日)一条南院、二条
藤原道兼正暦2年9月7日