内大臣
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宿老もしくは功績多大な公卿[3]に対する礼遇のための任命

単に筆頭大納言に相当する公卿への待遇が「3番目の大臣(太政大臣を除く)」に改められた任命

武家政権の長あるいはそれに次ぐ地位の者に対して与えられる任命[4]

の4つに分けられるようになる。

内大臣は左右両大臣が不在の際に代行して上卿として政務や儀式を主宰するものであり、あるいは左右両大臣と分担して職務を行う場合があった[5]太政官の実質的な首班であった一上に任ぜられたのは承保4年(1077年)の藤原信長のみであった[6]。相当位階は平安時代には三位で任じられた例も見られるが、中世以後は二位相当に固定された[7]。内大臣の封禄は左右大臣と大納言の中間的な待遇を受けている。『拾芥抄』によれば内大臣は年給が諸国目1人1分2人封戸800戸職田なしとされている[8]また、平安時代の左右大臣にはよく見られた牛車宣旨を内大臣(摂政関白を兼ねる例は除く)が受けた例は見られないなど左右大臣との待遇差が存在していた。

安土桃山時代豊臣政権下、五大老筆頭で最大の大名であった徳川家康も叙任された。以後も徳川家光等の歴代将軍が任命されている。江戸時代に入ると禁中並公家諸法度によって内大臣は三公には含まれないものとされ、宮中座次も三公、宮家親王、三公経験者の下に置かれた。更に摂家の昇進が優先された結果、摂家が大臣職を独占する時期が長期化したため、清華家といえども任官されることが困難となり、摂家の内大臣の交替の合間に数日から数ヶ月間、非摂家の長老もしくは功労者・外戚などなどの特殊な立場にあった者が交替で任官される場合もあるなど、その政治的権威は降下していった[9]明治維新に際して廃止されたが、1885年に内大臣府が創設された。
内大臣の一覧

原則『
公卿補任』に基づき、適宜別史料によって補訂した。南朝での補任者は史料に在職徴証がある人物のみ掲出した。

藤原房前藤原仲麻呂道鏡は内大臣には就任していないが、内廷に近侍する同様の重職に就任した者として掲出した。

名就任辞任
(※印は死没と同日)在職時の天皇号・典拠
内臣に大臣格が付与された官職としての内大臣
藤原鎌足皇極天皇4年6月14日[10]
645年7月12日)天智天皇8年10月16日
669年11月14日孝徳斉明天智初め内臣
藤原内大臣
藤原房前養老5年10月24日
721年11月18日天平9年4月17日
737年5月25日元正聖武内臣
藤原仲麻呂天平勝宝9歳5月20日
757年6月11日天平宝字2年8月25日
758年10月1日孝謙淳仁紫微内相
道鏡天平宝字8年9月20日
764年10月19日天平神護元年10月1日
765年10月19日)淳仁、称徳大臣禅師
藤原良継宝亀2年3月13日[11]
771年4月2日)宝亀8年9月18日
777年10月23日光仁初め内臣
弘福院
藤原魚名宝亀9年3月3日[12]
778年4月4日天応元年6月27日
781年7月22日)光仁、桓武初め内臣・忠臣
令制の左大臣右大臣に次ぐ官職としての内大臣
藤原高藤昌泰3年1月28日
900年3月2日)昌泰3年3月12日
(900年4月13日醍醐小一条、勧修寺


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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