内務省_(日本)
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これにより、内務省の所管事項であった土木や衛生は勿論のこと、文部省・農林省・商工省・交通行政関係者に対しても内務省の立場を非常に強くしていたという[14]。このほか内務省は地方財務監督権(原案執行、起債認可、継続費の認可)も持っており、各省庁は何をするにしても、内務省の同意と協力を得なければならなかった。
昭和時代

満洲事変支那事変日中戦争)を経て戦時体制に入ると、防空事務・国土計画の他に、国民精神総動員運動などの国民運動の指導、監督が新たに所管に加えられた。1938年(昭和13年)1月11日には外局であった衛生・社会両局が厚生省として分離されたが、当時の人事は内務省と一体のものとして運用されていた。

1910年代から1930年代にかけては政党員が内務大臣に就任したり、内務官僚出身者が代議士に転身して政党幹部に就任したりすることで省内に大きな影響力を与える一方、自党が選挙に有利になるように反対する省幹部や知事らを更迭して自党を支持する官僚を後任にあてる人事を頻繁に行うようになり、政権党が変わるたびに大規模な人事異動が行われて「党弊」とも呼ばれた。

1930年代に軍部が台頭すると、それと結んだ革新官僚が政党の影響力を排除した法改正を行うなど、独自の政治力を持つようになる。一方、軍部が地方行政や警察への介入を図ったために、双方の間で権限争いも生じた(ゴーストップ事件など)。戦前の北海道庁樺太庁警視庁、各府県の特別高等警察(特高警察)は内務省の下部組織であった。

国民精神総動員運動が叫ばれた時代には、民間人主導の精神運動の地方組織が、内務省の統括下にある市町村役場とその指導下にあった町内会部落会に依存しなければ、事実上運動ができない限界を逆手にとって、次第に内務官僚の意向が重視されるようになり、1938年(昭和13年)7月29日には内政会議(首相・蔵相・内相・文相で構成)に、精神運動に対する企画と指導の権限を与えることが決定した。これによって正式に精神運動は、内務省主導で推進されることになった。

内務省は精神運動の地方組織として、道府県庁内に精神運動の主務課(総動員課・総動員事務局・地方課・事変課・時局課など)を新設し、町村分会の設置と分会による隣保組織(部落会、五人組、十人組、隣保組)の指導などの実践網の整備に乗り出した。これらの実践網の整備は、表面的には精神運動中央連盟が実施する形をとっていたが、実際には内務官僚と警察官の主導によって推進されており、のちの大政翼賛運動における内務省の指導力の強さの源泉となるものだった[15]

1938年(昭和13年)7月30日、産業報国運動の中央指導機関として産業報国連盟が発足するが、指導力不足によって機能せず、政府1939年(昭和14年)4月28日に、内務・厚生両次官通牒「産業報国連合会設置に関する件」を全国の知事宛に発し、道府県知事(東京は警視総監)を会長とする道府県連合会と、その下に警察署管区を単位とする支部連合会を結成することを指示した。これによって中央機関である産報連盟と企業単位産報をつなぐ組織が完成したが、これによって内務省は産報運動の指導権を掌握することになった[16]
敗戦後

日本の敗戦後、内務省は陸海軍の解体・廃止に伴う治安情勢の悪化に対応するために、警察力の増強と、特高警察の拡充を行うつもりでいた[17]1945年(昭和20年)8月24日政府は「警察力整備拡充要綱」を閣議決定し、帝国陸軍海軍憲兵の解体によって、治安維持の全責任を内務省・警察が担うことを決めた[18]
警察官数を現在の定員(9万2713人)の2倍にする[18]

騒擾事件・集団的暴動・天災などに対処するため、集団的機動力をもつ「警備隊」(2万人を常設し、必要あるときは4万人を一般警察官によって編成する)を設置する。陸海軍と憲兵なき後、現在の警察の装備では鎮圧が困難なので、軽機関銃・自動短銃・小銃・自動貨車(トラック)・無線機などの武器や器材を整備して、「武装警察隊」を設置する[18]

海軍なき後の領海内警備のために、水上警察を強化(1万人)する[18]

以上3つがその計画であり、警察を軍隊の代わりにすることを意図していた。1945年(昭和20年)9月7日、内務省は陸軍省海軍省と協議し、復員軍人を警察官に吸収する計画を立てた。警備隊・武装警察隊・水上警察の上級幹部として、陸軍大学校海軍大学校出身者と、優秀な憲兵将校を2,000人採用し、警部補には陸軍士官学校海軍兵学校出身者を充てることがその内容であった[18]

特高警察は大幅な拡充を計画し、「昭和21年度警察予算概算要求書」には、特高警察の拡充・強化のために、1900万円が要求されていた。内容は、1.視察内偵の強化(共産主義運動、右翼その他の尖鋭分子、連合国進駐地域における不穏策動の防止)、2.労働争議小作争議の防止・取締り、3.朝鮮人関係、4.情報機能の整備、5.港湾警備、6.列車移動警察、7.教養訓練(特高講習、特高資料の作成)の計7点である[18]

政府・内務省は、警察力の武装化と特高警察の拡充・強化によって、敗戦による未曽有の社会的悪条件の下にある民心の動揺を未然に防止し、不穏な策動を徹底的に防止することを企図していた。1945年(昭和20年)10月5日、政府はGHQに上記の警察力拡充計画の許可を求めたが、GHQはこれを拒否した[18]

1945年(昭和20年)10月4日、GHQは特別高等警察や政府による検閲日本における検閲を参照)、いわゆる国家神道の廃止を指示、さらに内務省のもとでの中央集権的な警察機構の解体・細分化を求めた。また、警保局や地方局を中心に公職追放の対象となる官僚が続出した。
廃止.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに内務省及び内務省の機構に関する勅令等を廃止する法律の原文があります。

1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法は第8章を地方自治として定め、それまで内務官僚が就任していた都道府県知事公選に移行されるなど、地方行政が大きく転換された。同年末、GHQの指令を受けて内務省は廃止された。

内務省最後の日、内務官僚の後藤田正晴は内務省が解体・廃止されることに憤慨して、「内務省を復活させなければ、死ぬに死ねない」と言ったとされるが、後藤田本人は否定している。ただし、後藤田の6年後輩で、後に警察庁でコンビを組む渡部正郎は、前述の発言は後藤田のものだと証言している[19]

内務省廃止の式典の最後に、中堅・若手の内務官僚が集まり「必ず将来、内務省を復活させます」と、内務省の先輩に誓って解散したという秘話が伝えられている[20]。ほか、内務省廃止の日に最後の別れの酒宴が開かれた席上で、居残り組(総理庁官房自治課)の中心である鈴木俊一が、内務省の先輩達に対して「私があとに残って、必ず内務省を元通り復活させてみせます」と誓ったとされる[21]。「内事局」および「自治省」も参照
歴史

明治維新の際、律令制を基本として省が設置された。当初、内政は民部省が扱うものとされたが、財政徴税機構の一体化のために大蔵省に吸収合併されると、以後は内政を専門に管理する官庁がなく、その政務をめぐって大蔵省と太政官や他の省が争っていた。

1873年(明治6年)、征韓論がきっかけとなった政変(明治六年政変)を機に大久保利通が主導して太政官の下に「内務省」を新設(11月10日)[1]。自ら内務卿となった。


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