内乱の一世紀
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紀元前133年に護民官となったティベリウス・グラックス(グラックス兄)は、ローマの改革に着手するものの、元老院の反発に遭い暗殺され、紀元前123年には弟のガイウス・グラックスが護民官に就任して改革を再開するが、兄よりも急激な改革を目指したため、紀元前121年に反対派によって自殺、グラックス派は一掃され、様々な問題点が未解決のまま、「内乱の一世紀」が始まる[15]。この前後から、昔のように護民官が民会を利用して混乱を起こすことが見られるようになる[16]
マリウス時代マリウス「マリウスの軍制改革」も参照「さあ諸君、よく考えてみて欲しい。実行と言葉とはどちらが勝るのかを。彼ら[注釈 4]は私の新奇さを軽蔑する。私は彼らの怠慢を軽蔑する。私は偶然を攻撃され、彼らは恥ずべき振舞いを攻撃される。私は人の天性は一つであって万人に共通するものと考えるが、しかし最も勇敢な者こそが最も高貴だと考える。」—サッルスティウス、『ユグルタ戦争』85(栗田伸子訳)[17]

ローマが拡大するにつれ、暖かい時期のみの動員から、ポエニ戦争によって海外へ出兵するようになり、紀元前2世紀ヒスパニアスペイン)への出兵など、従軍が長期化し、自分の農地の面倒が見られないため市民が従軍を忌避するという問題が起こっていた[18]。これに対し、地方出身のガイウス・マリウスは、従来の市民兵に加えて、無産階級も志望者を兵士に加えることで、ゲルマニアから南下して来たゲルマン人とのキンブリ・テウトニ戦争で勝利したが、市民兵と違って資産を持たない志願兵は、兵役を終えた後に帰る場所もなく、彼らに土地を与えてくれる指揮官に忠誠を誓い、セミプロ化した彼らの力を背景に、指揮官の力も増していった[19]

マリウスは、いわゆるノウス・ホモ(先祖に執政官級がいない家系)であり、カエキリウス・メテッルス家をバックにつけて出世し、北アフリカヌミディアユグルタとの戦争に従軍していたが、そのメテッルスらノビレスの腐敗を民会で訴えるポピュリズム的手法で、紀元前107年に初めて執政官に当選、ユグルタ戦争の指揮を奪っており、ルキウス・コルネリウス・スッラがその配下のクァエストル(財務官)としてクルスス・ホノルム(名誉の階梯)を歩き出している[20]紀元前105年からのキンブリ・テウトニ戦争では、マリウスが紀元前104年から紀元前100年まで、第二次ポエニ戦争以来初めて執政官に連続当選して指揮した一方、その前104年にはシチリアで第二次奴隷戦争が起こっており、更に東地中海キリキアの海賊に対して、マルクス・アントニウスの祖父であるマルクス・アントニウス・オラトルが、それまで担当属州内に限られていたインペリウムとは違い、恐らく複数属州にまたがる異例のインペリウムを与えられている[21]

スッラはパトリキ(伝統的貴族)の中でも有名な、スキピオ・アフリカヌスと同じコルネリウス氏族ではあるが、長らく没落状態にある家の出身で、ユグルタ戦争で頭角を現したものの、落選も経験するなど決して順調なキャリアではなかった[22]。マリウスとスッラは、恐らくキンブリ・テウトニ戦争中に袂を分かち、同盟市戦争の直前には完全に敵対するようになっていた[23]
同盟市戦争紀元前218年頃のローマ公有地(赤)、同盟市領(緑)、植民市領(グレー)詳細は「同盟市戦争」を参照

同盟市戦争は、紀元前91年に勃発したが、これによってイタリア全土がローマ化し、後のローマ帝国の基盤となり、またラテン語が共通語として広まったという意味で非常に重要である[24]

イタリアの同盟市は、過去にローマと戦い負けた都市群で、彼らは年貢を要求されることはなかったものの、ローマの一方的に決定した対外戦争に兵力を供出する義務を負い、獲得した領地を分割されることもなかった[25]。彼らの兵力はローマのそれを上回り、それでいながら差別され、戦死者の数から使い捨てのように扱われていたと考えられる[26]。彼らは不満を持っていたはずだが、ローマは同盟市の富裕層に公有地(アゲル・プブリクス)の利用を認めるなどして懐柔していたため、反乱にまでは至らなかった[27]

彼らが反発した最初のきっかけは、公有地を一方的に分配しようとしたティベリウス・グラックスの農地法で[28]、更に弟ガイウス・グラックスの不当利得返還請求審問所に関する法によって、ローマのエクィテス(騎士階級)が集団として力を得、彼らの商売を脅かす存在となった[29]。同盟市がローマの方針に対抗するためには、ローマ市民権が必要で、それがあれば彼らもエクィテスの一員として、ローマで一定の地位を得ることが出来るが、彼らに市民権を約束したマルクス・リウィウス・ドルスス (護民官)の失脚により、ローマにその気が無いことが明らかとなり、彼らは反乱を起こしたとされる[30]

同盟市戦争では、北部でマリウスが、南部でスッラが、それぞれ別の執政官の下で戦っている[31]。同盟市の人口はローマに倍していたとする説もあり、ローマはすぐにルキウス・ユリウス・カエサル (紀元前90年の執政官)の「ユリウス法[注釈 5]」によって妥協し、紀元前87年までにはポー川以南の全自由民にローマ市民権を付与したが、この時点をもってローマは都市国家から領土国家に変貌したとも解される[33]。ただ、新しく市民となった同盟市民を、どのトリブス(選挙区)に登録するかという問題が残り、また退役兵に与える土地も、これまでとは違って同じ市民から奪うという形になりかねなかった[34]
前80年代の内乱スッラスッラは栄誉を勝ち取るために、あらゆる場面でマリウスの足跡を辿った。独裁官であっても、私人でしかないポンペイウスに頭を下げるだけに留まらず、椅子から立ち上がり、馬から下りさえしたのである。しかも、ポンペイウスがまだ18才に過ぎないとき、父親の側で私と共に戦ったのを思い出すと言い、民会の場でこれを進んで行ったのだ。—ウァレリウス・マクシムス、『有名言行録』5.2.9

紀元前88年から前82年にかけて起こった、ローマ初の内乱で、イタリア全土を舞台とし、一般的には「マリウスとスッラの内乱」とされるが、マリウスは内乱の冒頭で早々に退場し、その後幾人か指導者が替わっており、スッラ派としてグナエウス・ポンペイウスマルクス・リキニウス・クラッススが台頭する[35]。新市民となった都市群は、自分たちの将来をかけて、それぞれの判断で内乱に兵力を提供することになる[36]
スッラのローマ進軍


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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