内丹術
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内丹術の修煉とは、本来純粋な気を宿して生まれ、生から死への過程で欲望などで損耗しつつある人体の気を「内丹」として再生させ、気としての自己の身心を生成論的過程の逆行、存在論的根源への復帰のコースにのせ、利己たる存在を超えて本来の自己に立ち戻り[4]、天地と同様の永遠性から、ついには道との合一に至るという実践技法である。

修煉の基本原理は、身体を火を起こす(かまど)に見立て、丹田(なべ)とし、意識と呼吸をふいごにして、精・気・神(広義の気)を原料(薬物)として投入することで、内丹を作り出すことにある。修煉理論は、古代から研究されてきた気の養生術を、易経の宇宙論と陰陽五行の複合的シンボリズムと中国医学の身体理論に基づき[5]外丹術の術語を借りて、総合してできあがったものと考えられる。この内丹は、身体を強健にし、生命力を高め、身心に潜在する力を開発し、不老長生、心を統御し、智慧の果を得て、運命を超克することで、道を体現することを可能とする[6]

中華文化圏において神仙家・道家・医家が密接に関連し影響し合う中で歴史的に形成されてきた、内丹術を中心とする体系的な自己修養の実践と思想の総体を「仙道」「仙学」「仙宗」「丹道」「道家養生学」などと称する。これについて現代日本ではもっぱら「仙道」という呼称が普及している。朝鮮で独自に発展したそれは、当地において「国仙道」と呼ばれている。内丹術は、現代の「気功」の重要な源流の一つとなった[7]
思想概説

内丹術の思想は、道家の哲学を基盤に、古代の神仙思想を取り込み、禅宗儒家の思想と実践を融合した世界と人間の本性を究め性命を修める現実重視の哲学体系である[7][8]

中心概念の「」は、宇宙と人生の根源的な不滅の真理を指し、道家と儒家で説かれる概念である。『老子』は第一章と第二十五章で、世界の根源である混沌を「道」と呼び、道は天地万物の一切を生みだす霊妙な働きがあるとする。それは「無為自然」で、おのずからそうなるという自然の働きそのものである。第十四章で、道は姿や形はなく目で視ることも聴くこともできないとされる。第一章で、人は無欲であれば道の霊妙な真実を観ることができるが、欲望に囚われていればその表面的な現象を知るだけにとどまるという。第二十五章は、人間も万物と同じく道である自然の運行に法(のっと)り従うことを説いている[9][10]。『荘子』は「知北遊篇」の東郭子で、真実在としての「道」はこの眼前の世界を離れて在るのではなく、万物は道を含み「万物は道のあらわれ」であると説き、道はこの現実世界にこそ在ると示す。「齊物論篇」は、人為による二元的判断を捨て去ってありのままの真実を観れば、人間を含む一切の万物は齊(ひと)しく同じであると「万物齊同」を説き、道は通じて一と為すと「万物の一体」を言う。[11][12]

もう一つの中心概念である「」は、儒家、道家および医家などにおける共通の基礎であり、気は「中国思想」の特徴である[13][2]。『老子』第十章は「気を専らにして柔を致(きわ)めて、能く嬰児たらんか」[14]と気の大切さを説き、『荘子』「知北遊篇」は「人の生は気の聚(あつ)まれるなり。聚まれば則ち生と為り、散ずれば則ち死と為る」[15]と、気の集散による死生観を説く。内丹術の世界観は、全宇宙は「気」によって構成されており、人間もまた同様に気から成るという気一元論の立場である。気は物質を構成するとともに生命活動やこころなどの不可視の働きでもあるとする[16]。『易経』は、宇宙の森羅万象を陰と陽が交互に消長する陰陽の変化の過程として説明する一種の自然哲学である。五行の循環によって万物の変化をとらえる五行説と一体化した陰陽五行思想は、宇宙の運行と変化を理解する「概念」(枠組み)とされ、天地万物の一切である「気」の生成変化の事象を説明することに用いられた。気によって成る人間もまた自然と同じく陰陽五行の運行原理に依っている[3]

『老子』第四十二章の「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」[14]、或いは『易経』繋辞上伝の「太極両儀四象八卦[17]は、根源からの天地万物の生成論を説く。道家の道の哲学と儒家の太極の哲学は代には結び付けられ、また世界の生成を「気」に担わせる思想が学派を超えて中国思想の共通基盤をなしていた。これによって後漢には、根源たる「道」から先天の一が生じ、一気は陰陽の二気と成り、陰陽二気は交わり沖和の気を生じ、陰陽沖和の三気から万物が生じたとする、「道」と「気」に基づく天地万物の生成論が説かれるようになった[2]

内丹術は、人間が生成するときの順序も天地万物が化成するときの順序と同様とする。初めに根源としての父母が交わり、先天の一が起こり胎児が生じ、一気は(しん、意識)と気の陰陽二気に分かれ、(しん)とが体にそなわり、性(こころ)と命(からだ)がはっきりしていき、の三つが備わって万物としての嬰児が産まれ出る。

内丹術は人体の構成要素とされる 精・気・神を三宝(zh)と呼び、受胎時に父母祖先から受け継ぐ「先天」[18]と、出生以後の「後天」[18]に区分する。

人間は産まれ出て、十二正経経絡が完成すると奇経八脈が閉じ、「本性」である先天の神(本来の意識、元神)が退いて後天の神(自我意識、識神)が用いられ[4]、生命を維持するために食物と呼吸から得る後天の精・気に頼るようになり、次第に先天の精・気・神を漏失する。年齢を重ね青年に達すると、後天の精・気・神は全盛期に達する。情欲が芽生え、邪念は止まず、男女交感し、陰が増えて陽は消えていく。先天たる自然の「本性」(元神)を忘失し、徒(いたず)らに賢(さか)しらに走り性命を損ない自然の調和を乱す。老年に至ると、先天の元陽(先天の精、生命の源)は消耗して尽き、やがて衰えて老いそして死んでいくと死生観を説明する[6][7]

『老子』第二十五章は「大なれば曰(ここ)に逝き、逝けば曰に遠く、遠ければ曰に反(かえ)る」[14]と万物の循環を説き、『易経』は万物を陰陽魚太極図に示される、陰陽の消長する運動体であるとする。


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