内ゲバ
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^ a b c 犯罪白書
^ a b c d e f g h i 昭和50年 警察白書 第7章 公安の維持 3 暴走を続ける極左暴力集団
^ 昭和48年 警察白書 第7章 公安の維持 表7-9 内ゲバ発生状況(昭和43?47年)
^謀略粉砕・走狗一早B- 革マル派
^カクマル批判アーカイブ - 中核派
^ 「業をにやしたマル学同側は、近くの材木屋から大量の角材を買ってきて、これで武装して突撃した。これが角材が登場したはじめての事件であるとともに、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバのはじめである。(略)この角材によるゲバを指導したのが、マル学同に移行した清水丈夫全学連書記長である。(略)しばしば、今日の殺し合いにまでエスカレートした内ゲバが、どこからはじまったのかの議論になると、結局、このときの角材使用開始にまで話がさかのぼっていく。マル学同は、ほぼ全体が革マル派に移行したが、清水氏は後に中核派に移行したので、この日まで議論をさかのぼらせても、互いに相手側に責任をなすりつけあうことになる。」(立花隆 1975, 上巻)
^ a b 立花隆 1975, 上巻
^ 「10月6日に日比谷公園でおこなわれた全学連の統一行動で、やっかいな問題が起こったのだった。法大処分闘争に関する中核派のビラの中で、ブントと解放派が批判されていたのだが、これに怒った解放派の全学連書記局員が中核派の書記局員・丸山淳太郎さんを殴ってしまったのである。その場はなんとかおさまったが、明くる7日のこと。8日の行動の打ち合わせで法政大学に行った解放派の書記局員・渡木繁さんと高橋孝吉さんを中核派が拉致し、長時間のリンチをくわえる事態になってしまったのである。大闘争の前日に、三派全学連はとんでもないことになったわけだ。中央大学に集まっていた社学同や解放派は堂の長椅子を解体してゲパ棒を作ると、法大に押しかけて抗議し、解放派の書記局員を救出した。双方がゲパ棒を押し立てての対峠だったけれども、さいわい直接の衝突はなかった。」(荒岱介 2008)
^ 高木正幸『全学連と全共闘』
^ a b c d e f g h i j k 昭和50年犯罪白書,第3編第2章第3節過激派集団の犯罪,1975(昭和50),法務省
^ テロ・ゲリラを展開し暴力革命を目指す過激派『焦点269号、警備警察50年』警察庁平成16年
^ a b c 毎日新聞社 1998
^ 「前日に続き反帝全学連の主流社学同統一派と反主流の社青同解放、社学同ML両派が乱闘し、全学連大会流れる」
^ 「9/11 3日間、中核派と民育系が乱闘した法大で1000人超す一般学生が両派を学内から追い出し事態収拾」(毎日新聞社 1998)
^ 「11/11 大学統合移転で紛争の静岡大法経短大学部で、大学占拠をめぐり代々木系と反代々木系学生が乱闘、40人けが」(毎日新聞社 1998)
^ 「『大衆団交』貫徹を要求する全共闘は全学バリケード封鎖を予告し、これに反対する白共系学生と乱闘となり、約70人が負傷。」「図書館封鎖で全学封鎖めざす全共闘と代々木系が角材で乱闘」(毎日新聞社 1998)
^ 「教養では代々木・反代々木の衝突に教官がスクラム組み割り込んで拡大を阻止。」(毎日新聞社 1998)
^ 「図書館前(本郷)で学生5000人と教官800人による提案集会が3時間余開かれるが、加藤総長代行の発言はたった3回、しかも『なぜ、私のいうことを聞いてから議論しようとしないのですか』がただ1回ハッキリ聞こえただけ。大学当局の『提案集会』に対して全共闘は『粉砕』、日共系は『阻止』集会で対抗し加藤代行を奪い合ったため。流会後、両派が衝突を繰り返した」(毎日新聞社 1998)
^ 解放派の動員力低下を、革マル派は解放派を叩き潰すチャンスと見た。一九六八年十一月もおしつまったある日、「党派折衝」に名を借りて革マルは早稲田の解放派の主だったメンバーを呼び出してテロを加える計画をたてた。組織性に欠ける解放派は全学のキャップだった浜口竜太(りゅうた)ひとりがのこのことあらわれ、テロでやられたのは浜口一人だった。早稲田の解放派メンバーは早稲田構内に入れない状態になり、東大駒場の教職員会館を拠点にして全国動員で革マルとの武装対峙に入った。(高原駿『沈黙と軌跡』)
^ 『12・8緑会のビラ』「ながらく早大で第1政経自治会、文連、東大闘争等をめぐり争っていた革マルと社青同解政派」(毎日新聞社 1998)
^ 『12・8緑会のビラ』「革マルと社青同解政派は、一昨夜早大で乱闘を行なった。これをめぐり5 日夜 10時頃 東C社青同解放派約70名は駒場寮マル研の(革マル派の部屋)を襲い、洞田某を監禁し、立て看に油をかけて燃やした。急をきいた革マル(早大・東大etc)約50人は完全武装でかけつけ、社思研(社青同解放派の部屋)を襲った。この襲撃で白形、松本ら10人近くが負傷し、うちひとりが脳内出血の重傷を負った。」(毎日新聞社 1998)
^ 「12/6 東大教養学部駒場寮で社青同解放派の部屋に早大等の革マル派とみられる学生約50人が角材・白ヘルメット姿で押しかけ乱闘、止めに入った寮生8人が負傷」(毎日新聞社 1998)
^ 「教養学部での反代々木系革マル派と社青同解放派の学生同士の対立激化し、駒場察前で200人が衝突」(毎日新聞社 1998)
^ 「警視庁は田村二郎教養学部長に対し『今後、衝突があった場合、大学側の要請がなくても警官を学内に立ち入らせることもある』との警告書を渡す」(毎日新聞社 1998)
^ 「東大教養学部で全学集会への学生代表団を選ぶ代議員大会を開こうとした全学連行動委員会(代々木系)、一般学生有志とこの大会に反対する全共闘が構内で衝突、乱闘で教官ら23人けが。午後代々木系が他大生含む角材持った500人の行動隊で守りを固め大会を強行し代表選ぶ。法学部学生大会でスト解除案否決」「6日からの争いで重軽傷者は計128人を超えた。」(毎日新聞社 1998)
^ 「上智大でバリケードを撤去しようとする一般学生・代々木系学生とこれを阻止しようとする反代々木系学生が乱闘」(毎日新聞社 1998)
^ 「反代々木系学生同士がまた衝突、一部は井の頭線駒場東大前駅ホームでも乱闘したため、機動隊が出動し13人逮捕」(毎日新聞社 1998)
^ 「法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200人が投石、殴り合い。反代々木系50人が飯田橋駅に逃げ込み、国電ダイヤ乱れる」(毎日新聞社 1998)
^ 「反代々木系学生聞の乱闘が続く東大駒場で翌未明にかけてリンチ事件があり、2人重体、12人けが」(毎日新聞社 1998)
^ 「12/24 東大医学部学生大会に全共闘が殴り込み代々木系の民主化行動委の学生と乱闘」(毎日新聞社 1998)
^ 「日共民青はそれを阻止せんとしゲバルト部隊が派遣されていた。集会後全共闘は法および経済学部に突入し、再占拠を企てた。本郷全体でゲバルトになったのである。タ闇の中、教育学部屋上で民青との問に火炎ピンの投げ合いになったのを思い出す。火炎ビンは安田講堂内ではこのとき既に、多量に作られていたが、表だって使用されてはいなかった。(略)バリケードを築き、投石し合う中、村松はライターで布切れに火をつけたウイスキーピンを投げた。ガチャン、ボワ!と青い炎が広がり、投げつけられた民青はワァ!と後方に逃げて行った。追いかける私たち、そして再び火炎ビンが投げられたが、今度は不発だった。途中で火が消えてしまったのだ。それを拾った暗闇の中の民青は、火をつけて逆にこちらに投げ返した。放物線を描いて小さな炎が飛んで来て、それが私の足許に落ちた。次の瞬間、ボワァと青い炎が私の足許に広がった。「ワァ!」と思わず飛びのいた。「民育が火炎ピン投げんのか」と叫ぶと、「そっちが投げたんだろ」と聞の中から言い返してきた。」(荒岱介 2001)
^ 「民青が翌日代議員大会でスト解除を決談しようとするのを粉砕するためだ。(略)民青の代議員大会は寮食堂で開かれるということで、寮食と明、中、北寮をめぐる攻防になった。(略)。明寮への突入を試みたが、屋上からすさまじい勢いで投石され、眼の前でパタパタと人が倒れた。なんと日共民青はピッチングマシンを持込み、それで全共閥系の学生めがけて発射していたのである。ヒユン、ヒユンと瓦を砕いたとおもわれる石が、すさまじいスピードでしかもカーブしながら飛んできた。夜間なので弾は全く見えない。寮の廊下には畳が積み上げられ、中に突入することもままならぬのだ。(略)全共闘側は日大全共闘を中心に捕まえた民青を拷問した。ボコボコにぶん殴ったあげく、南京袋をかぶせ、紐で縛って引っ張り回した。夜は寒かったのであちらこちらで机や椅子がこわされ焚き火がたかれたが、その火の中にまで引っ張り回そうとするのを見たときはたまげた。(略)11日に捕虜交換をしたが、民青は戸板にのせて持っていくしかない人もいた。」(荒岱介 2001)
^ 「10日夜から日共民青は安田講堂に対しても攻撃をかけ、これは占拠中の東大全共闘と支援に駆けつけた中大会中闘でしのいだが、リヤカーにピッチングマシンを積んで撃ちながら攻めてきたという。
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