第2次ブント崩壊の過程で、様々なセクトが内ゲバを繰り広げた。1969年7月、中央大学の社学同内部の分裂抗争による内ゲバで、同志社大学生が死亡した。1969年7月6日、共産主義者同盟赤軍派が共産同執行部さらぎ徳二議長を監禁・暴行、翌日には叛旗派による赤軍派襲撃と塩見らの拉致、その脱出時に赤軍派1名が転落死した。 革マル派は他党派解体路線をおしだし、あらゆる新左翼党派にゲバルトや個人リンチを加え、暴力的に大学自治会や労組を掌握していった。 第四インター統一書記局派は内ゲバを否定していた党派であった。1984年(昭和59年)1月に、三里塚芝山連合空港反対同盟の分裂をめぐって、中核派が第四インター統一書記局派関係者を襲撃して大怪我を負わせた。死者はいなかったものの、アイスピックで大腿部を刺して、ガス壊疽を発症させ、左脚切断を余儀なくさせられた者や、頭蓋骨骨折の重傷者を出した。これに対して、第四インターは抗議声明を出すものの、元から「内ゲバ主義反対」を主張していたことから、中核派を暴力で反撃することはしなかった。これは、中核派による一方的な内ゲバ殲滅と位置づけられている。ただし第四インターも、拠点校では暴力により、対立党派を威圧することもあったため、常に内ゲバ反対という立場を貫徹していたわけではない。 後に中核派関西地方委員会が、2007年に中核派から分裂した革命的共産主義者同盟再建協議会が、中核派による襲撃を謝罪した。
革マル派と他党派
中核派と第四インター統一書記局派
内ゲバの歴史「日本の新左翼#歴史」を参照
1950年代
1950年(昭和25年) - 日本共産党が所感派と国際派に分裂し、両派のリンチが繰り返される。学生運動での初めての内ゲバとなっていく[4]。
1951年(昭和26年) -東京大学で、国際派の学生らが国際派内部の反対派学生らをリンチ[4][注 2]。
1952年](昭和27年) 6月 - 全学連五回大会で、所感派系の学生が国際派の反戦学生同盟メンバーをリンチ。立命館事件
1960-67年
1961年(昭和36年)7月 - 全学連第17回大会で、革共同系学生(マル学同)と、ブント・解放派らつるや連合
1963年(昭和38年)9月11日に起きた清水谷公園乱闘事件
1968年(昭和43年)1月、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。2月-4月には、王子事件(米軍王子野戦病院開設阻止闘争[17])、2月26日には成田デモ事件が発生した[16]。
2月12日 - 九大教養部学館で中核派と社青同解放派が乱闘、1人重傷。[18]
6月24日 - 法大で、革マルと中核派学生が乱闘。[18]
7月20日 - 反帝全学連大会でブントと、解放派・ML派の両派が乱闘。[19]
9月9日?11日 法政大で中核派と民育系が乱闘。[20]
10月21日の国際反戦デーには新宿事件が発生した[16]。
11月
11日 - 静岡大法経短大学部で、民青系(代々木系)と反代々木系学生が乱闘、40人が負傷。[21]
12日 - 東大図書館前で全共闘と民青系(代々木系)学生が角材で乱闘、約70人が負傷。[22]
14日- 東大教養学部で代々木系と反代々木系の学生の衝突を教官が阻止。[23]
26日 - 東京教育大で反代々木と代々木系学生が乱闘。[18]
29日 - 東大図書館前(本郷)で全共闘と日共系が衝突を繰り返す。[24]
下旬 - 早大で、革マル派が解放派にテロ、早大を追われた解放派は東大駒場へ移動し革マル派と武装対峙する。後に戦争状態となる解放派と革マル派の内ゲバの始まり。[25]
12月
4日 - 早大で解放派と革マル派が乱闘。[26]
5日 - 東大駒場寮で解放派と革マル派がお互いの拠点を襲撃しあう。[27]
6日 - 東大駒場で解放派と革マル派が内ゲバ。[28]
10日 - 東大教養学部(駒場)て革マル派と解放派の対立が激化、駒場寮前で約200人が衝突、45人が負傷。[29]
11日 - 警視庁が東大学側に警告書[30]
13日 - 東大教養学部で全共闘と代々木系学生・有志学生が衝突乱闘。[31]
14日 上智大で代々木系学生と反代々木系学生が乱闘。[32]
16日
東大駒場で、及び駒場東大駅ホームで革マル派と解放派が衝突。[33]
法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200人が乱闘。[34]
17日 - 東大駒場で反代々木系学生間でリンチ。[35]
24日 - 東大で全共闘と民青系(代々木系)の学生が乱闘[36]
1968(昭和43)年の内ゲバ事犯による負傷者数は700人にのぼった[16]。内ゲバ事犯の当初の形態は、偶然的な遭遇に起因するもので,集会・デモ等における主導権争いからの抗争が大部分で、凶器も,プラカードの柄,竹竿,角材などのいわゆるゲバ棒であった[16]。