内ゲバ
[Wikipedia|▼Menu]
1989年 社青同解放派(革労協)革労協元幹部内ゲバ殺人事件を起こし「同志殺し」の「内内ゲバ」を正当化した。更に1999年から2004年にかけて、主流派(狭間派・現代社派)からの反主流派(赤砦社派・木元派)の分裂に際して10人が殺害され、大きな内ゲバ事件がほぼなくなっていた時期の内ゲバは社会に衝撃を与えた。
ブント各派の内ゲバ

第2次ブント崩壊の過程で、様々なセクトが内ゲバを繰り広げた。1969年7月、中央大学の社学同内部の分裂抗争による内ゲバで、同志社大学生が死亡した。1969年7月6日、共産主義者同盟赤軍派が共産同執行部さらぎ徳二議長を監禁・暴行、翌日には叛旗派による赤軍派襲撃と塩見らの拉致、その脱出時に赤軍派1名が転落死した。
革マル派と他党派

革マル派は他党派解体路線をおしだし、あらゆる新左翼党派にゲバルトや個人リンチを加え、暴力的に大学自治会や労組を掌握していった。
中核派と第四インター統一書記局派

第四インター統一書記局派は内ゲバを否定していた党派であった。1984年(昭和59年)1月に、三里塚芝山連合空港反対同盟の分裂をめぐって、中核派が第四インター統一書記局派関係者を襲撃して大怪我を負わせた。死者はいなかったものの、アイスピック大腿部を刺して、ガス壊疽を発症させ、左脚切断を余儀なくさせられた者や、頭蓋骨骨折の重傷者を出した。これに対して、第四インターは抗議声明を出すものの、元から「内ゲバ主義反対」を主張していたことから、中核派を暴力で反撃することはしなかった。これは、中核派による一方的な内ゲバ殲滅と位置づけられている。ただし第四インターも、拠点校では暴力により、対立党派を威圧することもあったため、常に内ゲバ反対という立場を貫徹していたわけではない。

後に中核派関西地方委員会が、2007年に中核派から分裂した革命的共産主義者同盟再建協議会が、中核派による襲撃を謝罪した。
内ゲバの歴史「日本の新左翼#歴史」を参照
1950年代

1950年(昭和25年) - 日本共産党所感派国際派に分裂し、両派のリンチが繰り返される。学生運動での初めての内ゲバとなっていく[4]

1951年(昭和26年) -東京大学で、国際派の学生らが国際派内部の反対派学生らをリンチ[4][注 2]

1952年](昭和27年) 6月 - 全学連五回大会で、所感派系の学生が国際派の反戦学生同盟メンバーをリンチ。立命館事件[4]

1960-67年

1961年(昭和36年)7月 - 全学連第17回大会で、革共同系学生(マル学同)と、ブント解放派らつるや連合の間で乱闘衝突。学生運動史上初めての角材を使用した内ゲバであり、セクト間の武装部隊による本格的内ゲバの初めとなった[12]

1963年(昭和38年)9月11日に起きた清水谷公園乱闘事件では、同公園で、中核派、解放派ら連合4派250名の集会に革マル派150名が押し掛け、角材で乱闘した[13]

1964年(昭和39年)7月2日 - 革マル派の拠点早大に、中核派・解放派・構改派の3派が殴りこみ[13]。7・2早大事件

1966年(昭和41年)7月4日の全寮連第八回大会で、日共系学生と反日共系学生が大会主導権を巡って乱闘が起きた。日共系学生暴力発動の最初であり、「あかつき行動隊」創設につながった[注 3]

同年9月3日の社青同東京地本九三事件では、社青同東京地本大会で、大会の主導権を巡って解放派と協会派が乱闘、協会派側に百人を越える負傷者をだす。

1967年(昭和42年)

2月、3月 - 2月28日から3月2日にかけて、善隣学生会館(現、
日中友好会館)で日本共産党系と反日共系・華僑学生が衝突。(善隣学生会館事件

10月7日 - 法政大学で、中核派が解放派の高橋幸吉などへリンチ。[14]

10月8日 - 羽田闘争において中核派、解放派は内ゲバに備えて角材ヘルメットで武装する[15]。この武装は現場で対機動隊に転化され、初めて機動隊を打ち破った。衝突で、中核派の学生山崎博昭が死亡したことで、以来、暴力事件は頻発していった[16]

1968年

1968年(昭和43年)1月、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争。2月-4月には、王子事件(米軍王子野戦病院開設阻止闘争[17])、2月26日には成田デモ事件が発生した[16]

2月12日 - 九大教養部学館で中核派と社青同解放派が乱闘、1人重傷。[18]

6月24日 - 法大で、革マルと中核派学生が乱闘。[18]

7月20日 - 反帝全学連大会でブントと、解放派・ML派の両派が乱闘。[19]

9月9日?11日 法政大で中核派と民育系が乱闘。[20]

10月21日国際反戦デーには新宿事件が発生した[16]

11月

11日 - 静岡大法経短大学部で、民青系(代々木系)と反代々木系学生が乱闘、40人が負傷。[21]

12日 - 東大図書館前で全共闘と民青系(代々木系)学生が角材で乱闘、約70人が負傷。[22]

14日- 東大教養学部で代々木系と反代々木系の学生の衝突を教官が阻止。[23]

26日 - 東京教育大で反代々木と代々木系学生が乱闘。[18]

29日 - 東大図書館前(本郷)で全共闘と日共系が衝突を繰り返す。[24]

下旬 - 早大で、革マル派が解放派にテロ、早大を追われた解放派は東大駒場へ移動し革マル派と武装対峙する。後に戦争状態となる解放派と革マル派の内ゲバの始まり。[25]


12月

4日 - 早大で解放派と革マル派が乱闘。[26]

5日 - 東大駒場寮で解放派と革マル派がお互いの拠点を襲撃しあう。[27]

6日 - 東大駒場で解放派と革マル派が内ゲバ。[28]

10日 - 東大教養学部(駒場)て革マル派と解放派の対立が激化、駒場寮前で約200人が衝突、45人が負傷。[29]

11日 - 警視庁が東大学側に警告書[30]

13日 - 東大教養学部で全共闘と代々木系学生・有志学生が衝突乱闘。[31]

14日 上智大で代々木系学生と反代々木系学生が乱闘。[32]

16日

東大駒場で、及び駒場東大駅ホームで革マル派と解放派が衝突。[33]

法政大で反代々木系と代々木系の学生それぞれ200人が乱闘。[34]


17日 - 東大駒場で反代々木系学生間でリンチ。[35]

24日 - 東大で全共闘と民青系(代々木系)の学生が乱闘[36]

1968(昭和43)年の内ゲバ事犯による負傷者数は700人にのぼった[16]。内ゲバ事犯の当初の形態は、偶然的な遭遇に起因するもので,集会・デモ等における主導権争いからの抗争が大部分で、凶器も,プラカードの柄,竹竿,角材などのいわゆるゲバ棒であった[16]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:130 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef