具志堅用高
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ジュニアフライ級の世界王座防衛回数世界新記録(当時)を達成[4]。その後、10月12日には石川県金沢市金沢実践倫理記念会館に於いてペドロ・フローレスメキシコ)を苦戦しながらも15回判定に降し、13度目の防衛にも成功(世界王座防衛13度は日本人男子世界王者の最多記録で、女子を含めると小関桃に次ぐ記録)[3][4]

1981年3月8日、地元沖縄県での凱旋試合として具志川市(現在のうるま市)の具志川市立総合体育館にて14度目の防衛戦を開催。前回の防衛戦で対戦したフローレスと再戦。回が進むにつれ、挑戦者のプレッシャーをかわし切れなくなっていく。8回に最初のダウンを奪われると、迎えた12回、挑戦者の右ストレートをまともに浴びて2度目のダウン。辛くも立ち上がり試合続行に応じたが挑戦者の追撃に襲われる。ここでセコンドからタオルが投入され世界王座陥落[4]。この試合を最後に現役を引退した。本人が語った所によると、最初調子は悪くなかったが、序盤でパンチが目に入り、目がよく見えなくなり、そのあとは記憶が無く、ダウンしたことも翌日の報道で知ったと言う。その後、再戦の話が出るが、網膜剥離寸前と診断され一ヶ月通院。元のようには戦えないと思い、新婚の妻とも話し合ったすえに引退を決めた[3][8]

引退後は解説者として活躍する一方、タレント活動にも参加。1995年には日本人初のボクシング世界王者でもある白井義男と共同で「白井・具志堅スポーツジム」を開設。同ジムの会長として後進育成に力を入れ、元日本スーパーフライ級王者の名護明彦、元OPBF東洋太平洋ライトフライ級王者の嘉陽宗嗣らを育てた。2017年5月20日には所属する比嘉大吾が前王者フアン・エルナンデスを破ってWBC世界フライ級王者となり、所属ジムから初の正規世界王者が誕生した[9]。しかし、2020年6月6日に公式ホームページで「気力、体力ともに、これまでのように情熱を持っての指導に当たるには難しい年齢になったこともあり、ここが潮時と決断いたしました」と閉館を発表。7月31日に閉館した[10]

2010年4月より、太田プロダクションに所属となる。同年6月に『クイズ!ヘキサゴンII』に出演すると、そのマイペースなキャラクターと珍解答で注目され、そのまま準レギュラーとなった[1]。太田プロ所属以前から天然ボケキャラを生かしてテレビ出演をこなしていたこともあり、2021年現在も数々のバラエティ番組に出演し、「ちょっちゅね」に代表される陽気なイメージと、独特のキャラクターで人気を集めている。

2010年5月には、日本における元世界チャンピオンらと共に、プロボクシング・世界チャンピオン会を設立した。

2011年5月、BEGIN夏川りみとともに石垣市の観光大使に任命された[11]

2014年に国際ボクシング名誉の殿堂オールドタイマー部門に選出された[12]。2015年にはイクメン・オブ・ザ・イヤー・イクジイスポーツ部門を受賞した[13]
戦績

戦日付勝敗時間内容対戦相手国籍備考
11974年5月28日☆4R判定牧公一
日本(田辺)プロデビュー戦
21974年9月10日☆4R判定牧公一 日本(田辺)
31974年12月9日☆5R 2:45KO三原忠広 日本(オギクボ)
41975年3月9日☆4R 2:36KO新田恭信 日本(笹崎)
51975年6月29日☆6R判定ジョー康雄 日本(中村小田原)
61975年10月19日☆6R 1:25KO蕨野昭二 日本(埼玉中央)
71976年1月23日☆7R 2:16KOセザール・ゴメス・キー アメリカ合衆国
81976年7月16日☆3R 2:44KO滝井利久 日本(池田)
91976年10月10日☆7R 0:32KOファン・ホセ・グスマン ドミニカ共和国WBA世界ライトフライ級タイトルマッチ
101977年1月30日☆15R判定2-1ハイメ・リオス パナマWBA防衛1
111977年5月22日☆15R判定2-1リゴベルト・マルカノ ベネズエラWBA防衛2
121977年10月9日☆4R 2:17KOモンシャム・マハチャイ タイWBA防衛3
131978年1月29日☆14R 0:27KOアナセト・バルガス フィリピンWBA防衛4
141978年5月7日☆13R 2:59KOハイメ・リオス パナマWBA防衛5
151978年8月13日☆6R 2:22KO金莫童 韓国ノンタイトル戦
161978年10月15日☆5R 0:22KO鄭相一 韓国WBA防衛6
171979年1月7日☆7R 0:36KOリゴベルト・マルカノ ベネズエラWBA防衛7
181979年4月8日☆7R 2:47KOアルフォンソ・ロペス パナマWBA防衛8
191979年7月29日☆15R判定3-0ラファエル・ペドロサ パナマWBA防衛9
201979年10月28日☆7R 0:53KOチト・アペラ フィリピンWBA防衛10
211980年1月27日☆15R判定3-0金龍鉉 韓国WBA防衛11
221980年6月1日☆8R 1:42KOマルチン・バルガス チリWBA防衛12
231980年10月12日☆15R判定3-0ペドロ・フローレス メキシコWBA防衛13
241981年3月8日★12R 1:45KOペドロ・フローレス メキシコWBA王座陥落
テンプレート

生涯戦績 24戦23勝(15KO)1敗
人物

沖縄の本土復帰後には、サウスポーであることから交通ルールの変更
[注 4] を周知するCMにも出演した。

トレードマークとなる、ヒゲとアフロヘアーは、チャンピオンを目指しはじめた時から意識しはじめた。世界に出ても気後れせずにという思いで、当時の中南米の選手がかっこ良くヒゲをはやしていたので真似をする。[14]

ダウンした相手を殴る悪癖がある程、試合では気性が荒かったが、自分では臆病者だと語っている。「周りから引っ張られたからボクシングを続けた。控え室に誰もいなかったら、迷わず試合を投げ出して逃げる自信があった」とも語ったことがある。

8度目の防衛戦の約1週間前となる1979年4月2日にTBS系クイズ番組「クイズ100人に聞きました」の第1回に家族で出場し、1992年の当番組最終回スペシャルにも「ボクシングチャンピオンチーム」の一員として出場した。

『世界戦の前日、ボブ・マーリーと喧嘩し、後に意気投合し、翌日の世界戦に招待した』、というエピソードがWikipediaの記事として載ったが、そのことを本人にインタビューした際、「ボブ・マーリーって誰?僕は誰とも喧嘩なんてしたことないよ」と、否定している[15]

現役時代、TBSの歌番組『ザ・ベストテン』にゲスト出演。チャゲ&飛鳥飛鳥涼パンチングマシン対決で敗れ、再挑戦するもリベンジには至らなかった。

具志堅を事実上引退に追い込んだペドロ・フローレス(現在はメキシコでボクシングジムを開いている)とは1997年にテレビ朝日で放送された『ザ・スーパーサンデー・あの人は今』の企画で再会し、1ラウンドだけだったがペドロのジム内リングで“リターンマッチ”を行っている。


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