兵_(日本軍)
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大正9年1月15日に新たに「海軍兵職階ニ関スル件」(大正9年1月15日勅令第11号)が制定され、同年4月1日から施行された。そこでは、卒の名称を兵に改めるとともに、兵の名称を共通して「海軍○等○○兵」(1等ないし4等)とし、兵科は水兵、機関科は機関兵、軍楽科は軍楽兵、船匠科は船匠兵、看護科は看護兵、主計科は主計兵と称した。
教育
陸軍
初年兵教育

初年兵教育は中隊附の下級将校(少尉見習士官)が教官となり指揮をした。実際に初年兵の手を取って指導するのは下士官の助教、二年次以上の古参兵の助手である。「気をつけ」や敬礼などの礼式基本動作から始まり、銃剣術、兵器の取り扱い、戦術的な訓練などへと進んでいく。中隊長は日々の訓辞や精神講話などを除いて現場には直接関与しない。教育の進捗状況は3か月ごとに査閲を受け、その結果は初年兵の将来だけでなく教官や中隊長の査定の材料ともなるので、教育は入念に行われた。教育における体罰は禁止する明文規則があったが無視されており、ビンタや、いわゆる「精神棒」による体罰は日常的に行われていた。
上等兵候補者特別教育

幹部候補生士官学校予科修了者は別にして、この課程を経なければ、一般の兵が上等兵になるのは、極めて難しかった。

1期の教育期間中の勤怠や成績を元に、内務班長や特務曹長(後の准尉)の推薦を受けて中隊長から候補者に指名され、上等兵候補者特別教育を受けた。通常の演習などは免除されないため、早朝や夕食後など、厳しい条件の教育訓練となった。ただし、普通の兵士には受けられない法規などの学科を学び、修得した。この上等兵候補者教育を修了した者より、数か月おきに数次に分けて上等兵への選抜が行われた。1年目の終わり、12月に最初の選抜があり、ここで進級する者を「一選抜上等兵」と呼んだ。兵隊の出世頭である。1940年頃より、候補者は実際の上等兵要員より多く指名されるようになった。兵隊の資質を向上させることと、候補者同士の競争を行うこと、上等兵の権威付けのためといわれている。
海軍

海軍は四等水兵として入隊した兵を海兵団で纏めて教育した。このような手法を採用したのは、海軍に艦を操るのは陸軍が銃を扱うのと違うという思いがあったのと、狭い艦に万一のことがあれば重大な危険にさらされる恐れがあり、基本的なことを身に付けるまで部隊に配属できないという考えがあったためである。また、現代のようにレーダーのない時代、広い海原で敵艦を発見する必要性があったため、視力は陸軍以上に重視された(実用に耐えるレーダーは結局戦後まで開発出来なかった。レーダーの歴史#日本を参照)。
海兵団「海兵団」も参照

海兵団は兵種ごとに分隊(陸軍の中隊に相当)を編成した。分隊を15-16人程度の教班に分けて教育を行った。分隊長大尉で、海兵団長は少将であった。海兵団は鎮守府の下部機関で、横須賀佐世保舞鶴にあった。出身県ごとに配属される海兵団は決まっていた。

分隊長は兵学校出身の大尉が大半だったが、中には一般の兵から叩き上げた特務大尉や特務中尉もいた。

海兵団の兵種は次の通りである。

水兵

飛行兵(当初は航空兵、整備兵が分離されるとともに改称)

整備兵(航空兵から分離)

機関兵

工作兵

軍楽兵

主計兵

看護兵(後に衛生兵と改称)

兵の受けた教育に次のものがある。

短艇橈漕教練 短艇(カッター

陸戦教練 陸軍と同じように銃を担いでの教練であった。海軍に陸戦隊があったことによる。

手旗信号 必須科目

相撲銃剣術

甲板掃除

結索術 ロープの結び方の学習

座学 教室で行う普通の授業。修身軍事学が中心で、国語算術も学んだ。

海軍では陸軍と異なり「しごき」や肉体的制裁が公然と認められていた。日本海軍に於いて特に有名な「しごき」は海軍精神注入棒(軍人精神注入棒、大東亜戦争勝ち抜き棒)等と呼ばれる硬い樫の木の太棒(他には止索(とめなわ)と呼ばれる太い係留用ロープやラッタルの手摺(通称、真剣棒)が使われる事さえあった)やを構えた下士官や古兵が、教育の名の下に壁に手をつかせた新兵のを叩く行為(所謂ケツバット、当時の海軍ではバッタと呼ばれていた)が有名である。叩かれ腫れ上がった尻のせいで、その夜はまともに仰向けで寝る事が出来ずに奥歯を噛み堪えながら夜を明かす新兵が多かった[3]。中には叩く力が強すぎて肛門が裂けた新兵、叩きどころが悪く背骨に当たり死亡した(=殺された)新兵さえいた。

この「しごき」は海兵団での教育中は勿論、艦や部隊に配属された先でも変わらず常態化していた。特に大和型などの戦艦や空母といった大型艦(軍艦)程「しごき」の壮烈さは酷く、新兵は水を飲む暇すら無かった[3]。逆に駆逐艦や潜水艦といった戦艦等と比較し所帯染みた小型艦は「しごき」のレベルは弱かった。他に見方によっても違うが、甲板掃除は「しごき」のひとつと言える。
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この項目では、旧大日本帝国海軍の術科学校について説明しています。その他の術科学校については「術科学校」をご覧ください。

術科学校は士官も学生として入校したが、ここでは練習生と呼ばれた兵についてのみ述べる。練習生には普通科、高等科、特修科があり、まず普通科に入校した。

大型艦に配属先された者の中には「しごき」から逃れるため、自身の希望ではなく試験日が早いという理由で海軍工作学校の飛行機整備科を受験する者もいた[3]

術科学校には次の学校があった。

海軍砲術学校神奈川県横須賀市

海軍水雷学校(神奈川県横須賀市)

海軍対潜学校(神奈川県横須賀市)

海軍通信学校(神奈川県横須賀市)

海軍航海学校(神奈川県横須賀市)

海軍電測学校(神奈川県藤沢市

海軍気象学校茨城県土浦市霞ヶ浦

海軍工機学校(神奈川県横須賀市)

海軍工作学校(神奈川県横須賀市)

海軍潜水学校広島県呉市、後に同県大竹町(現大竹市に移動)

海軍衛生学校 1945年設立。戸塚海軍衛生学校(神奈川県横浜市)と賀茂海軍衛生学校(広島県賀茂郡乃美尾村(当時))の2校があった。

徴募

平時の軍隊は多くの人員を必要としないため、陸軍は徴兵検査合格者の中から、さらに選抜された者だけが現役兵として入営した。海軍は後述のように志願が基本で、志願兵だけでは不足する場合にのみ徴兵できた。しかも海軍大臣陸軍大臣の「協議」が必要であった。しかし戦時になると現役兵の他に様々な形での召集によって兵員の数は膨れあがった。
陸軍
徴兵検査

満20歳(1943年から満19歳)になった男子は、徴兵令(後に兵役法)により、徴兵検査を受ける義務があった。徴兵検査に関しては、海軍で徴兵する者も、陸軍が一括して行った。海軍で徴兵する者を除いた者が、下記の区分に従って徴兵された。

徴兵検査は4月16日から7月3日にかけて全国的に行われた。検査を受ける者は、ひとつになって身体計測や内科検診を受けた。軍隊の嫌う疾病は、伝染性の結核性病(集団生活に不都合。性病が発見されると成績が大きく下がり、その連隊にいる限りまず絶対に一等兵以上に進級しなかった[4])で、また軍務に支障ありとされる身体不具合は、偏平足心臓疾患(長距離行軍が不能のため)・近視乱視(射撃不能のため・諸動作・乗馬に不都合)であった。X線検査などはなく、単に軍医の問診・聴診・触診や動作をさせての観察など簡単な方法にて診断が行われた。また褌をはずさせて軍医が性器を強く握り性病罹患を確かめる、いわゆるM検、さらに後ろ向きに手をつかせ、肛門を視認する痔疾検査も検査項目として規定され、全員に実施された。航空機搭乗者・聴音などの特殊兵種の少年志願兵の検査には、より入念な方法が実施された。

検査が終わると、次の5種に分類された。
甲種 身体が特に頑健であり、体格が標準的な者。現役として(下記の兵役期間を参照)入隊検査後に即時入営した。


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