兵_(日本軍)
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現役として(下記の兵役期間を参照)入隊検査後に即時入営した。甲種合格者の人数が多いときは、抽選により入営者を選んだ。

乙種 身体が普通に健康である者。補充兵役(第一または第二)に(同)組み込まれ、甲種合格の人員が不足した場合に、志願または抽選により現役として入営した。

丙種 体格、健康状態ともに劣る者。国民兵役に(同)編入。入隊検査後に一旦は帰宅できる。

丁種 現在でいう身体障害者。兵役に適さないとして、兵役は免除された。

戊種 病気療養者や病み上がりなどの理由で兵役に適しているか判断の難しい者。翌年再検査を行った。

検査に学力検査はなく、身長が152センチメートル以上で身体が強健、視力がおおむね良好ならば甲種合格とされた。水木しげるのように強健でも近視が強い者は眼鏡破損時に作戦行動が難しくなるため乙種とされ、入営した場合もさほど視力が関係しない兵科に配置された(水木は喇叭手になった)。また身長が極度に高いなど体格が標準でない場合は、軍服の支給に支障があるため乙種もしくは丙種とされた。

徴兵検査の責任者は聯隊区司令部より派遣される徴兵官(佐官級の陸軍将校)で、これを市町村自治体の兵事担当部署が補助し、身体検査自体は部隊派遣の衛生部員が実施した。会場整理など雑務は在郷軍人会が補助人員を差出した。身体検査後は、その場で徴兵官より合格・不合格が告げられ、志願の有無(外地部隊や海軍)を問われた。海軍は志願制が主体であったが、不足人員の徴兵も行っており、徴兵検査を陸軍に委任していた。

兵科兵種への割当は、それぞれに基準があった。砲兵は重量物を扱うため体格良好でなければならず、玉乃海太三郎など入営した力士は優先して選ばれた。騎兵は乗馬するため高身長で、さらに偵察任務のため視力良好でなければならず、工兵は職人・機械工などの経験者が選ばれた。輜重兵は大勢の輸卒を部下に持つため一等兵でも分隊長なみの統率力が要求され、比較的に高学歴者が選ばれた。なお眉目秀麗・姿勢良好が要求される近衛兵の選別は徴兵検査では行わず、入営してから一般部隊より抽出された。

平時は春に検査があり、翌年の1月に入営した。入営即日に軍医の身体検査があり、そこで兵役に耐えられずとされると、即日帰郷を命ぜられ除隊となった。これは自己申告制で、軍医が中隊ごとに新兵を集めては「身体に不具合のある者は申し出よ」と命じ、その場で簡単な診察を行って決定した。従って不具合があっても認められない者や、虚偽申告によって入営を免れた者など、さまざまな悲喜劇が生まれた。「三島由紀夫#戦時下の青春」および「仮面の告白#あらすじ」も参照
召集

戦争、軍事紛争などの勃発により軍隊の増員が必要になると、現役兵だけでは賄いきれないため、予備兵、国民兵などが召集された。召集は聯隊区司令部が取扱い、誰をどの部隊に召集するかを、本人の兵科兵種特技を勘案して決定した。適任の候補者が多数ある時は、在郷軍人の名簿からアトランダムに抽出した。市町村自治体の兵事担当部署が兵役にある者を名簿に記入して綿密に掌握しており、年度の徴募計画に従ってあらかじめ作成された召集令状警察署の金庫に保管されていた。動員令がくだると、兵事担当者はすぐさま本人に令状を届けた。詳細は「召集#実施の手順」および「召集令状#陸軍省」を参照

多いのが充員召集、臨時召集で、他に臨時召集や教育召集、演習召集など多様な召集があった。召集の種類によって令状用紙の色が異っており、臨時召集令状は赤いので「赤紙」と俗称されていた。広く誤解されているが「召集令状」全てが「赤紙」というわけではない。教育召集は「白紙」であり、防衛召集は「青紙」と呼ばれた。詳細は「召集令状#召集命令状の種類」および「召集#兵役法下の制度」を参照

兵士は自分達の命を葉書の値段といわれる「一銭五厘」と自虐的に擬えたが、葉書の召集令状は存在しない。召集令状は全て市町村役場の兵事係が本人宅を訪れ本人へ、不在の場合は親族へ手渡していた。
徴兵に関する特権

日本軍は「国民皆兵」を建前としたが、実際にはいくつかの免除規定があった。

1873年(明治6年)1月10日に制定された徴兵令に盛り込まれた免除に次のものがあった。

身分上の免除 官吏、陸海軍生徒、官立専門学校以上の生徒、洋行修行中の者、医術馬医術を学ぶ者

階級上の免除 代人料270円を払った者(270円は歩兵兵卒の年間維持費3年分(当時の在営期間)に相当、現在の880万円)

嗣子に対する免除 家長とその家の家督を継ぐとされる者(実子、養子を問わない)

前科者に対する免除 厳密には排除と言えるが、徒刑以上の刑に処せられた者は、「名誉ある義務」兵役につかせないという政府の考えによるものであった。

1883年(明治16年)に徴兵令が一部改正され、代人制が廃止され、代わりに一年志願兵制度が導入された。一年志願兵は次の条件を満たす者に認められた。

満17歳以上27歳未満

小学校を除く官立・府県立学校を卒業した者

兵役中の費用を自弁する者

ただし当時の公立中学校卒業生は年間3000人程度であり、一年志願兵制度を利用できる者は非常に限られていた。

1889年(明治22年)に全面的に改正された徴兵令が公布・施行される。この改正徴兵令で一年志願兵制度以外の免除規定は削除された。一年志願兵制度は対象が私立学校卒業生に拡大され、予備役・後備役の幹部養成の教育期間とされた。兵役期間中に二等軍曹(後の伍長)になって除隊・予備役に編入される。その後勤務演習を経て終末試験に合格すると予備役将校に、不合格だと予備役下士になった。予備役将校になると将校としての衣服・装具は全て自弁しなければならなかったため、終末試験にわざと落ちる者も多かった(士官候補生からの現役将校には支度金が支給された)。

同年新たに設けられたのが、六週間現役兵制度である[5]。国民の初等教育の普及徹底のため特に師範学校を卒業した官公立小学校教員の兵役期間を短縮させるのが六週間現役兵制度の狙いだった。六週間現役兵は他の兵とは別の個室を与えられ、衣服は上等であり特別待遇を受けた。軍隊は良いところだという印象を教員を通じて児童に教育し植え付ける目的があったとみられる。

1900年代後半、義務教育修業年限が4年から6年に延長され、教員も不足し始めた。そこで従来の師範学校の他に中学校卒業者を対象に一年課程の師範学校第二部が作られた。この第二部卒業生も六週間現役兵制度の対象になった。軍備拡張期にあたったことから、合法的な徴兵逃れが厳しくなっていた時期でもあり、徴兵逃れに第二部を利用する者も少なからずいた。1919年(大正8年)に六週間現役兵制度は一年現役兵制度に改められた[6]。「小学校令#明治40年改正」および「師範学校#1897年 - 1943年」も参照

1927年(昭和2年)、徴兵令の全面改正の形を取って兵役法が制定された。この兵役法では、次のように改められた。

一年志願兵制度を幹部候補生制度に改め、予備役幹部と位置付けた。詳細は「幹部候補生 (日本軍)#一年志願兵制度による予備役幹部補充」を参照


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