兵種(へいしゅ)とは、兵がその特技によって分類された区分である。「陸軍兵ノ兵科部、兵種及等級表ニ関スル件」(昭和6年11月勅令第271号)などに規定がある。兵科部の下に兵種が分類され、兵種毎に対応した階級呼称は廃止された。
昭和に入り、戦車部隊の増加に対応して、歩兵から戦車兵を独立した兵種とさせた。1943年(昭和18年)には、陸軍独自に船舶兵器を運用し揚陸作戦に資するため、工兵(兵種)の一部であった船舶工兵・上陸工兵を船舶兵として独立させた。 1937年(昭和12年)2月12日に「明治三十五年勅令第十一号 陸軍武官官等表」が改正され、各部の階級制度が大幅に改訂された[6]。従来は「陸軍一等主計正」など兵科と全く異なった階級名が用いられていたが、この改正により「陸軍主計大佐(従来呼称は陸軍一等主計正)」など、兵科の階級名に準じた階級名となった。また、同じく昭和12年2月12日付で、軍令 「朕陸軍武官の官等、陸軍兵の等級等に関する件を制定し之が施行を命ず」により、「将校相当官(将官相当官・佐官相当官・尉官相当官)」が「各部将校(各部将官・各部佐官・各部尉官)」に改められた[7]。 明治7年11月8日に改定された陸軍武官表[1] の時点では、次の各部が置かれていた。 陸軍で経理を扱う部門は、名称の変遷が激しいところである。 明治7年当時の監督部は、監督課・司契課・糧食課・被服課・病院課・裁判所囚獄課からなっていたが、明治12年10月10日頃には、監督部内を課に分けることが廃止され、「司契」などの特別な官名も廃止された。また、病院課に置かれていた会計部下士たる「看病人」は軍医部下士に移った[3]。また、明治19年3月9日の時点では、監督部から軍吏部が分離している[4]。明治36年12月1日[8] に監督系と軍吏系とに分かれていたものが統一され、官名に「主計」を用いるようになった。この際の改正では、次のように官名が変更された。 後に主計総監は「陸軍主計中将」と改称された[9]。 明治21年6月26日に、軍医部が衛生部と改称された[10]。 明治19年3月9日の時点では、馬医部が獣医部に改称されている[4]。明治21年6月26日に、獣医部の下士を廃止した[10]。 明治12年10月10日の時点では、軍楽部が設けられている[3]。 1919年(大正8年)8月6日、陸軍技術将校令(大正8年8月6日勅令第368号)が制定施行され、陸軍将校(歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵・航空兵科に属している兵科将校)のなかで、技術を掌る部門にある者を「技術将校」という分類とした。技術将校は主に一般大学の工学部又は理学部出身の学士から補充することが予定された(当時の陸軍補充令)。1940年9月15日には、これらは独立した各部の一つとして「技術部」となった。 創設当時の技術部は、兵技と航技(航空技術)とに分かれていて、将校・下士官の官名も「陸軍○○中将」ないし「陸軍○○伍長」(○○には兵技又は航技が入る)とされた(昭和15年9月13日勅令第580号)。また、兵については、従来の「工機兵」が「技術部兵」と改称され、「工機兵たる歩兵」は「技術部兵」に転じることとなった。技術部兵も将校・下士官同様に「陸軍○○兵長」から「陸軍○○二等兵」(○○には兵技又は航技が入る)という名称となった(昭和15年9月13日勅令第581号)。 航技将兵は黄色の定色の山型胸章に加え、襟部に航技を示す鳥の翼を象った航技特別章を着用してこれを区別し(昭和15年制式。後述の昭和19年の兵技との一本化に於いて廃止)、昭和18年制式期は航空胸章を着用した。
各部
明治7年当時
監督部(監督課・司契課・糧食課・被服課・病院課・裁判所囚獄課)
軍医部
馬医部
経理部
監督部(明治7年か)
会計部 (明治12年か)
監督部・軍吏部(明治19年か)
監督部
経理部(明治35年か)
陸軍監督総監→陸軍主計総監
陸軍監督監→陸軍主計監
陸軍一等監督→陸軍一等主計正
陸軍二等監督→陸軍二等主計正
陸軍三等監督→陸軍三等主計正
陸軍一等副監督・陸軍一等軍吏→陸軍一等主計
陸軍二等副監督・陸軍二等軍吏→陸軍二等主計
陸軍三等副監督・陸軍三等軍吏→陸軍三等主計
衛生部
獣医部
軍楽部
技術部
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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