外貨獲得を急務とした明治政府は、但馬の生糸の輸出に日米友好通商条約により開港した神戸港(旧摂津国、神戸市中央区)を活用するため、大久保利通の指示の下、櫻井努が策定した案を基に1876年(明治9年)、第三次兵庫県の区域を確定した。神戸を発展させるための財源として、豊かな農業国であった播磨・但馬などからの税収を充てたのである。
江戸時代に置かれた藩は摂津国に尼崎藩・三田藩、丹波国に篠山藩・柏原藩、但馬国に出石藩・豊岡藩があり、播磨国に姫路藩・林田藩・明石藩・龍野藩・赤穂藩・三日月藩・小野藩・三草藩・安志藩・山崎藩が、淡路国に阿波藩(阿波徳島藩)の洲本城代の稲田家、旗本(交代寄合)の山名家の村岡陣屋、交代寄合の池田家の福本陣屋が存在した。
上記のように多様性を内包した当県は、かつて存在したユーゴスラビア社会主義連邦共和国になぞらえて「ヒョーゴスラビア」と呼ばれることがあり[注釈 4]、県もこれに乗る形で2018年から「U5H=United 5koku of HYOGO(兵庫五国連邦)」というプロモーションを行っている[4][3][5]。 摂津国八部郡の兵庫津(現在の神戸市兵庫区)に初代県庁舎が置かれたことによる。 兵庫津(旧称は大輪田泊)は当時人口2万人を超える港町として栄えていたが、事実上の開港場は兵庫津の北東に近接する同郡神戸村となった。慶応4年9月(1868年10月16日?11月13日)に県庁舎は同郡坂本村へ新築移転しており[6]、兵庫津に置かれた期間は約3?4ヶ月、県設置以前から数えても約8?9ヶ月と1年に満たない。 2代目県庁舎が置かれた坂本村の南部(仲町部)は兵庫の一部とも見なされたが、約4年6?7ヶ月後の1873年(明治6年)5月に県庁舎は神戸町へ移転し[7]、以降この3代目県庁舎とほぼ同じ場所で4代目県庁舎と5代目県庁舎に建て替えられている。「兵庫県庁舎」も参照 市街としての兵庫津(兵庫)は1879年(明治12年)1月8日に神戸区(神戸市の前身)の一部となり[8]、港湾としての兵庫津(兵庫港)も1892年(明治25年)10月1日に神戸港の一部となって[8]、明治以降急速に発展した「神戸」に飲み込まれる形で一体化したが、県名は「兵庫」のまま続いている。 「兵庫」の由来は、天智天皇の治世に兵の武器庫という意味である「つわものぐら(兵庫)」があったことに由来し、兵庫県旗と県章も兵の字を図案化したものである。
県名の由来
慶応4年(1868年)
1月15日(2月8日) 兵庫島上町に兵庫役所を設置[6]。
1月19日(2月12日) 兵庫切戸町の旧兵庫勤番所へ兵庫役所を移転[6]。
1月22日(2月15日) 兵庫鎮台を設置[6]。
2月2日(2月24日) 兵庫鎮台を兵庫裁判所と改める[6]。
5月23日(7月12日) 兵庫裁判所を廃止して兵庫県を設置[6]。
地理・地域
広袤(こうぼう)節内の全座標を示した地図 - OSM