共和制
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19世紀半ばごろまでの西洋文献の翻訳では英語のdemocracyとrepublicを区別せず、中国では両方を「民主」と翻訳し、日本では両方を「共和」と翻訳した[8]。「共和」の語は中国古典にもあったが、そこでの用法は政体についてのものではなかった[9]

漢語の「共和」は中国史上の「共和」と呼ばれる期間に由来する。大槻磐渓の示唆により箕作省吾が、その著『坤輿図識』(1845年)で「republic」の訳語として初めて用いた[10][11]。中国史の「共和」時代は、西周脂、が暴政を行って国人(諸侯と都市住民)に追放された後の14年間で、『史記・周本紀』によれば、宰相召公周公が共同して(共に和して)統治に当たったとされた。一方、これは誤りで、「共伯和」(共という国の伯爵の和という人物)が諸侯に推戴されて王の職務を代行したこと(『古本竹書紀年』の記述)からそう呼ぶという説もある[12]。いずれにしても、中国歴代王朝が支配した歴史の中で、この時期は世襲の君主がおらず、有力者の合議による政治が行われていたと考えられていたため、「共和」の語が「君主のいない政体」を指すものとして用いられることになった。

その他に「共和国」と同じ意味の訳語として民国があり、一部の国号に使われている(中華民国大韓民国)。
概要

共和制とは、一般には国家元首に君主を持たない政体であり、より正確には主権が君主以外にある政体である[4]。主権がどこに存在するかを区別する呼称であるため、形式的な君主が存在する場合もあり、また民主制ではない政体も含まれる。

本来、人民主権の立場から民主主義と君主制は両立しないが、君主(あるいは一部の主権者)の選出を、主権がある国民の合議選挙・(直接民主制間接民主制)によって、あるいは国民憲法での制度(立憲君主制)によって行われることを以って共和政を標榜できるとする主張も存在している。これらは単なる民主政がしばしば陥いる衆愚政とならないよう行政権を分離することで回避を試みてきた制度開発の歴史的な背景があるが、これは為政者によって様々に解釈され、共和政を標榜する政体であっても専制寡頭政独裁政治であるとして批判されることがある。

なお、領土国民などは主権国家に帰属し外交権は持たないが行政権を主権国家から分離したとする政体に対して自治体の呼称が用いられることがあるが、実際には主権の多くが主権国家の干渉を受け、域内の自治政体は共和政とはなっていない。
歴史
古代共和政ローマの領域地図

近代までは大多数の国家は君主制であった[13][14]。このため多くの「共和国」は、君主制を廃止した形で成立し、その過程が革命と呼ばれた場合もある。

近代までは「共和政」や「共和国」という用語や概念は、明確な意味を持たなかった[15]。しかしいくつかの国家政体は現在では「共和政」や「共和国」と呼ばれている。古代に共和制を取った共和政国家としては、アテナイなど一部の古代ギリシア都市や、インドのいくつかの国家があげられる。インドの古代共和制国家はガナ・サンガ国とも呼ばれ、クシャトリヤに属する支配部族の有力者によって指導・統治される国制を取っていた[16]紀元前6世紀頃から紀元前5世紀頃に北インドに割拠していた十六大国のうち、ヴァッジ共和国(リッチャヴィ国)やマッラ共和国などいくつかの国は共和制を取っていた[17]。古代アテナイでは王を追放して市民が政治を行い、デモクラティア(民主制、民主政、民主主義)と呼ばれた。古代ローマは紀元前6世紀に王を追放して王政ローマから共和政ローマに移行し、執政官元首)・貴族(元老院)・平民(民会)による統治(混合政体)が行われたが、彼らは衆愚政治を意味するデモクラティアとの名称を避け、レス・プブリカ(共和国)と自称した。その後変遷を経て、後世においてローマ皇帝と呼ばれる統治者による支配へと移行し、帝政に移行した[注釈 1]
中世・近世ヨーロッパ

ローマ帝国が衰退していく中、301年にはイタリア半島中部のティターノ山にキリスト教徒の一団が立てこもり、現存する最古の共和制国家であるサンマリノ共和国を建国した。中世に入ると、ヨーロッパでは神聖ローマ帝国の統治下にあるイタリア半島およびドイツにおいて、多くの都市国家が共和制を採用した。イタリア半島においては神聖ローマ帝国の統治権が弱く、各地に小領主や小都市国家が乱立する中で、共和制を採用する都市国家も多く存在した。ヴェネツィア共和国ジェノヴァ共和国フィレンツェ共和国などのように経済力を高め大いに繁栄した共和制国家も存在したが、ヴェネツィアを除いてはそれほど安定した国家体制を構築することはできず、フィレンツェのように国内の有力者が王となるなどして王制に移行する国家が多かった[18]。ドイツにおいては自由都市や帝国都市(帝国自由都市)は領主を持っていなかったが、神聖ローマ帝国の統治権の衰退とともに政体はそのままで独自性を高めていき、事実上共和制を取る国家となっていった[19]。アルプス地方では帝国自由都市・帝国農村の連合に起源をもつスイス誓約同盟が結びつきを強め国家化しながら存続し、現代でもスイス連邦として共和制を取りつづけている[20]。これ以外にも、ロシアにおいては北部の有力国家であるノヴゴロド公国が、君主として公がいるものの権力を持たず、貴族による民会によって国制が運営されていたために事実上共和制となっていた。このため、この国をノヴゴロド共和国と呼ぶこともある[21]。ノヴゴロドの南にあるプスコフも、やはり同様の政治体制を取っていた。

近代以降では、まず16世紀後半に入るとネーデルラント北部の7州が連合して独立し、1609年ネーデルラント連邦共和国を建国した[22]1649年には清教徒革命によってイングランドで王制が廃止されイングランド共和国が成立した[23]ものの、1660年には王政が復古された[24]1688年名誉革命では王政は継続したが立憲君主制の基礎が構築された[25]

また、17世紀に入るとヨーロッパにおいて、有徳の人物による執政を基本とする共和主義の思想が盛んとなった。この時期の共和主義は必ずしも君主制の廃止を求めるものではなく、人格・識見に優れた人物であれば君主の執政をも容認していたが、一方で血統のみに頼る政治を否定することで、君主制によらない政体の思想的基盤となった[26]
民主共和国の成立「Democratic republic」も参照

こうした共和制の歴史の転換点となったのは、アメリカ独立革命である。アメリカ合衆国の建国者たちは君主制を忌避していたため王を持つことは避けられ[27]、アメリカは有徳の市民による共和主義を念頭に、制度としての共和制を明確に志向して建国された[28]。しかしアメリカには王も貴族も存在せず、議会を掣肘できる勢力が存在しなかったため、議会の暴走にブレーキをかけるために権力分立を導入し、政治エリート間の相互抑制によって政治の安定と健全性を担保する方策が採られた[29]。このシステムは以後も機能し続けたものの、19世紀に入ると有権者資格の大幅拡大や男子普通選挙の導入などで民主化が進み[30]、民主制と共和制が結合されて民主共和政という新たな政体が生まれた。


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