共和制
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アルプス地方では帝国自由都市・帝国農村の連合に起源をもつスイス誓約同盟が結びつきを強め国家化しながら存続し、現代でもスイス連邦として共和制を取りつづけている[20]。これ以外にも、ロシアにおいては北部の有力国家であるノヴゴロド公国が、君主として公がいるものの権力を持たず、貴族による民会によって国制が運営されていたために事実上共和制となっていた。このため、この国をノヴゴロド共和国と呼ぶこともある[21]。ノヴゴロドの南にあるプスコフも、やはり同様の政治体制を取っていた。

近代以降では、まず16世紀後半に入るとネーデルラント北部の7州が連合して独立し、1609年ネーデルラント連邦共和国を建国した[22]1649年には清教徒革命によってイングランドで王制が廃止されイングランド共和国が成立した[23]ものの、1660年には王政が復古された[24]1688年名誉革命では王政は継続したが立憲君主制の基礎が構築された[25]

また、17世紀に入るとヨーロッパにおいて、有徳の人物による執政を基本とする共和主義の思想が盛んとなった。この時期の共和主義は必ずしも君主制の廃止を求めるものではなく、人格・識見に優れた人物であれば君主の執政をも容認していたが、一方で血統のみに頼る政治を否定することで、君主制によらない政体の思想的基盤となった[26]
民主共和国の成立「Democratic republic」も参照

こうした共和制の歴史の転換点となったのは、アメリカ独立革命である。アメリカ合衆国の建国者たちは君主制を忌避していたため王を持つことは避けられ[27]、アメリカは有徳の市民による共和主義を念頭に、制度としての共和制を明確に志向して建国された[28]。しかしアメリカには王も貴族も存在せず、議会を掣肘できる勢力が存在しなかったため、議会の暴走にブレーキをかけるために権力分立を導入し、政治エリート間の相互抑制によって政治の安定と健全性を担保する方策が採られた[29]。このシステムは以後も機能し続けたものの、19世紀に入ると有権者資格の大幅拡大や男子普通選挙の導入などで民主化が進み[30]、民主制と共和制が結合されて民主共和政という新たな政体が生まれた。以後、共和制は徐々に他国においても民主制と結合していき、民主共和政は共和政の一大潮流となっていった。

ついで、1789年にはフランス革命が勃発し、フランスが共和制を敷いた。新政府は国王ルイ16世を処刑して君主制からの明確な離脱を表明するとともに、共和主義を確立させるため急進的にさまざまな施策を行った。この共和政国家はナポレオン・ボナパルトが帝位につくまでの短い期間しか持続しなかったが、フランスおよび世界各国に非常に大きな影響を及ぼした[31]。一方で、ヨーロッパ大陸に残る古い共和制国家の多くはナポレオン戦争によって侵略され、独立を失った。イタリアではヴェネツィア共和国が1797年に滅亡し[32]、ドイツではフランス占領下の1803年に領邦国家の再編が行われた際にほとんどの帝国自由都市が近隣の領邦に併合されて消滅して、1815年のウィーン会議後に独立して存続していたのはブレーメンハンブルクフランクフルト・アム・マインリューベックの4都市のみとなっていた[33]。ネーデルラントもフランスの侵略を受け、バタヴィア共和国からホラント王国などを経て[34]、1815年にはネーデルラント連合王国として君主制に移行した[35]

19世紀初頭にはラテンアメリカ諸国が相次いで独立戦争を起こし次々と独立していくが、シモン・ボリバルをはじめとする指導者の多くは共和主義を信奉しており、ポルトガルから王を迎えたブラジルと、独立時に一時帝政を敷いたメキシコを除くすべての国が共和制を採用した。これらラテンアメリカの共和制国家は共和制下の独裁制となることもあり、また大統領の権限が非常に強い大統領制をとることが多かった[36]。ただし、19世紀中はヨーロッパやアジア・アフリカなど新大陸以外の地域では依然として君主制維持の流れが続いており、ヨーロッパにおける新たな独立国では他国から王族を迎え入れて君主制を敷くことが多かった。1830年にはオランダからベルギーが独立を果たすものの、このとき共和制を望んだベルギー人に対し周辺諸国は王の推戴を国家承認の条件とし、ベルギーは君主制を敷いている[37]。またアメリカ独立革命では、君主制のイギリスから独立した形で共和制を採用した共和国が建国されたものの、それ以外のイギリスの植民地の多くにおいては、イギリス国王を元首として推戴する形で独立し、立憲君主国として建国した。
20世紀以降

20世紀に入ると1912年の辛亥革命で中国が共和制となったが、共和制国家が増加を始めたのは第一次世界大戦を契機とする。この大戦でドイツオーストリア・ハンガリーロシアの3ヶ国で君主制が崩壊し[38]、また民族自決を掲げて戦後独立したヨーロッパの国家はユーゴスラビアハンガリーなどの例外を除き多くが共和制をとった。第二次世界大戦によって、イタリアや東欧諸国で君主制が廃止され、共和制国家はさらに増加した[39]。また、それまで同君連合制をとっていたイギリス連邦において、独立したインドが共和制をとった上でイギリス連邦にとどまることを希望したため、1949年に国王への忠誠条項が撤廃され、英連邦王国とイギリス連邦とが制度的に分離した。これにより、君主制を取らずともイギリス連邦への残留が可能となり[40]、旧英国植民地が共和制をとりやすくなった。

第二次世界大戦後のアジア・アフリカ諸国の独立においては、植民地時代に保護国間接統治として君主制が残っていた国家や一部の英連邦王国を除き、ほとんどの国が共和政国家として独立を果たした。君主制の残存していた国家でも、エジプト王国イラク王国イエメン王国リビア王国、そしてイラン帝国のように革命の勃発によって君主制が廃止されることは多い[41]のに引き換え、新たに君主制を導入する国がほとんどないため、20世紀中盤以降は君主制国家より共和政国家のほうが国家数が多くなっている。君主制国家において大きな政体変動が少なくなった21世紀に入って以降もこの流れはわずかながら続いており、2008年にはネパールが君主制を廃止して共和政国家となった[42]。またイギリス連邦内君主国でも、2021年11月29日にはバルバドスが共和制へと移行した[43]

現時点で君主制を維持している国家においても、いくつかの国家では共和制を求める運動が起こっている。イギリス連邦内君主国においてはたびたび共和制移行の動きが出ており、なかでもオーストラリアでは特に君主制廃止の動きが強く、1999年には共和制移行を求めた1999年オーストラリア国民投票が行われたものの、反対票が55%にのぼったため否決された[44]。またジャマイカグレナダベリーズなどでも共和制移行の動きがあるとされている[45]。2022年9月のエリザベス2世死去に伴って共和制を求める意見はさらに強まり[46]アンティグア・バーブーダでは君主制廃止のための国民投票が検討され[47]バハマでも同様の動きがあるほか、オーストラリアの共和制論議も再燃しており[48]ニュージーランドでもジャシンダ・アーダーン首相が将来の共和制導入に肯定的な反応を示している[49]


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