六衛府
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歩兵部隊の正装は赤い上着に熊の毛皮の帽子(Bearskin)で有名であり、連隊によって制服のボタンの配列と帽子の飾りに差異がある。騎兵部隊はジャケットの色が連隊により異なる。

これらイギリス陸軍所属の近衛連隊の他に、儀式の際に国王女王の護衛を務める主権者警護隊(Sovereign's Bodyguard)と呼ばれる部隊が存在する。詳細は「近衛兵 (イギリス)」を参照
スウェーデン王国詳細は「近衛兵 (スウェーデン王室)」を参照

スウェーデン王国においても近衛兵が王宮を警護している。その創始は、スウェーデンが独立した16世紀に起源を持つ。かつてはスウェーデン君主の近衛としてのスウェーデン軍戦闘部隊の一つだった。

18世紀のスウェーデン王グスタフ3世は、近衛連隊を用いクーデターを起こしている(1772年)。

現在のスウェーデンの近衛兵は、一般的な近衛連隊と、主に王室と宮殿を警護する近衛兵がある。

ピッケルハウベをかぶったスウェーデン近衛兵

スウェーデン騎馬近衛兵

ロシア詳細は「親衛隊 (ソ連・独立国家共同体)」を参照

現代のロシア連邦では、ソビエト連邦時代から、戦時に卓越した戦果を挙げた部隊、平時の演習・訓練時に優れた成績を収めた部隊(艦艇)に対して、親衛(гвардейский)の称号が授与されている。ただし、これは部隊名誉称号でしかなく、制度上のいかなる優遇措置もないが、親衛部隊(艦艇)配属の将校の階級呼称には、「親衛」(гвардия)の文字が付く(例えば、親衛少佐(майор гвардии)等)。

ソビエト連邦の崩壊後に行われた軍縮では、新参の部隊が廃止され、輝かしい戦歴を有する部隊が残される傾向が強く、必然的に現在のロシア連邦軍では、「親衛」部隊の割合が大きくなっている。

クレムリンの警備は、ロシア連邦警護庁大統領連隊(旧クレムリン連隊)が担当している。
オスマン帝国

オスマン帝国スルタンの身辺警護の兵にはいくつかのタイプがあった。

スルタンの身辺には普段から、選りすぐりの兵が2名一組で仕えており、剣で武装していたが、今でいう「ボディーガード」のような役割も果たしており、スルタンになにか危険が迫れば、たとえば弓矢で狙われたりしたらとっさに自分の身を挺して自分の命とひきかえにスルタンを護ることもいとわなかった。鮮やかな紅色の服と、紅色の布が垂れた帽子をかぶっているのが目印である。(歴史ドラマ『オスマン帝国外伝?愛と欲望のハレム?』では第10代皇帝スレイマン1世とその家族の人生を描いているが、下の絵そっくりの、真っ赤な服を着た兵がたびたび登場する。)

またボスタンチ(トルコ語:tr:Bostanc?)と分類される護衛兵もおり、ボスタンチは主にスルタンの宮殿(たとえばトプカプ宮殿など)とその敷地を護る任務を帯びていた。もともと「ボスタンチ」は「庭師」といった意味の言葉だった。ボスタンチは宮殿の警備を担当するだけでなく、スルタンのはしけも漕いだ。ボスタンチのリーダーはパシャの階級に属した(つまり、リーダーはいわば「大臣クラス」だった)。ボスタンチは多い時代には3000名ほどいた。兵役時には、帝国の別の護衛軍団イェニチェリ(次に説明)と連携して活動した。いざ戦争となると、ボスタンチ1人で普通の兵の数名分の強さだったという。20世紀初頭にはボスタンチの数は600人ほどに減っていた。

またスルタン直属の軍隊の中では、旧来の剣などの武器の軍隊とは別に、新たに火器で武装した最精鋭常備歩兵軍団のイエニチェリが創られた。スルタン直属の主力軍団として原則的に首都イスタンブールにある兵営に住まわされ、スルタンの「おひざもと」の首都イスタンブールを護る役割を与えられていた。妻帯は禁じられたが、高い俸給を与えられ免税などの特権も享受した。(イエニチェリは強力な部隊だったが、スルタンの身辺警護や首都警護だけでなく首都以外の各都市にも配備され組織が拡大するにつれ反乱なども起こすようになった。)

スルタンの身辺警護の兵。2名一組で警護した。

ボスタンチ

イエニチェリ

中国
始皇帝

始皇帝紀元前259年 - 紀元前210年)も近衛兵をたずさえていたことが知られている。「あの世」でも近衛軍団をしたがえるつもりだったのか、壮大な兵馬俑秦始皇帝陵兵馬俑坑)を残した。兵馬俑の軍人たちは、実際に始皇帝に仕えた実在の軍人ひとりひとりを再現するように作られた、といわれている。
隋朝

隋朝(581年 - 618年)では禁軍(近衛軍)として、十二衛が置かれた。2代皇帝・煬帝宇文化及らが率いる禁軍によって殺害された。
唐朝「en:Imperial Guards (Tang dynasty)」も参照

唐朝(618年 - 907年)では禁軍(近衛軍)として、皇帝を護衛する北衙禁軍(左右羽林軍・左右龍武軍・左右神武軍・左右神策軍)と首都を警備する十二衛が置かれた。この他に皇太子を護衛する六率府もあった。
明朝「錦衣衛」も参照

明朝では、首都に駐屯する京軍のうち上十二衛を侍衛親軍(近衛軍)とした。永楽帝は禁軍を増強し、侍衛親軍は12衛から22衛に増強したほか、投降したタタール人を基盤に編成した騎兵部隊である三千営や火器を運用する部隊である神機営を設置した。
清朝

清朝では、領侍衛府が紫禁城の警備を担任した。


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