六芸
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

六芸の語は戦国時代に現われ、前漢武帝の時代まで、もっぱら六つの経典の意味で用いられた[1]。詩(『詩経』)、書(『書経』)、礼(『礼記』または『儀礼』)、楽(『楽経』)、易(『易経』)、春秋(伝が三つある)で六芸である。技芸の意味で六芸の意味が現われた初例は前漢武帝代に「発見」された『周礼』である[2]。後に『周礼』の権威が高まると、経典は五経、技芸は六芸と使い分けられるようになった。
『周礼』の六芸

『周礼』は、周代の制度を後の時代に想像・理想化して著したものと考えられている。その中で、身分あるものに必要とされた6種類の基本教養を六芸とまとめた。その「地官・大司徒」に、礼・楽・射・御・書・数を六芸とする。それぞれ、礼儀、音楽、弓術、馬車を操る術、書道、算術である[3]。同じことを、「地官・保氏」では、五礼、六楽、五射、五馭、六書、九数と列挙する[4]

大司徒、保氏は『周礼』の中にある官職で、大司徒は、万民に六芸を含めた技芸や道徳を広めることを責務とする。その配下にある保氏は、貴族の子弟を集めて六芸を教える。こうした職務は歴史的事実ではなく、『周礼』の創作である[4]。だが、漢代以降長く周の時代の実際の制度だと信じられた。
孔子の芸

史記』孔子世家には、次のような逸話が語られている。孔子が一芸に名を成していないのは、世に用いられず、様々な芸を習い、多芸の身となってしまったからであり、このことを達巷の村人に、「(孔子は)一芸で名を成していない」といわれた。それを聞いた孔子は、「御(馬術)でも名を成そうか」といってみせた。鄭玄注によると、これは六芸の中で、御(馬術)が格下と認識されていたため、孔子が謙遜して言ったのだという。
脚注^ 福井重雅『漢代儒教の史的研究』、142 - 144頁。
^ 福井重雅『漢代儒教の史的研究』、145 - 146頁。
^ 福井重雅『漢代儒教の史的研究』、144頁。
^ a b 福井重雅『漢代儒教の史的研究』、145頁。

参考文献

福井重雅『漢代儒教の史的研究』、汲古書院、2005年。
.mw-parser-output .asbox{position:relative;overflow:hidden}.mw-parser-output .asbox table{background:transparent}.mw-parser-output .asbox p{margin:0}.mw-parser-output .asbox p+p{margin-top:0.25em}.mw-parser-output .asbox{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox-note{font-size:90%}.mw-parser-output .asbox .navbar{position:absolute;top:-0.90em;right:1em;display:none}

この項目は、中国の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めていますP:中国/P:歴史/P:歴史学/PJ中国史)。


表示

編集


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:13 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef