六本木
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現在は繁華街歓楽街というイメージが強い傾向にある。2000年代再開発により六本木ヒルズ東京ミッドタウン(住所上は赤坂)といったオフィス併設の大規模複合商業ビルが誕生した。六本木ヒルズや泉ガーデンタワーといったオフィスビルや新興IT企業の本社[7]グランドハイアット東京などの高級ホテル、高級タワーマンション駐日大使館も多くあり、多面的・国際的な顔を見せている。六本木ヒルズ内にはテレビ朝日(テレ朝)の本社、住友不動産六本木グランドタワー内にはテレビ東京(テレ東)本社も位置している。また、国立新美術館森美術館森アーツセンターギャラリー(六本木ヒルズ)、サントリー美術館(東京ミッドタウン)などの美術館が多く集積し、都内では上野台東区)に次ぐ文化・芸術の街という側面もある。
歴史

現在の六本木の町域は大半が武家地だった区域だが、江戸時代の「六本木町」は門前町で、現在の六本木交差点付近の狭い範囲を指していた。明治以降の「六本木町」は、寺院や大久保加賀守小田原藩主)家の下屋敷跡などを含む範囲になった。武家屋敷跡がお屋敷町になった。湧き水や地下水に恵まれ金魚の養殖が盛んであった。

六本木近辺には日本軍軍事施設が置かれ、兵隊の町でもあった。龍土町(現:六本木七丁目)には1936年(昭和11年)の二・二六事件にも参加者を出した歩兵第三連隊があり、隣接する赤坂区檜町(現:赤坂九丁目)には歩兵第一連隊があった。

1925年(大正14年)6月6日、赤坂溜池と六本木間で市電が開通。交通の便が良くなった[8]

1938年(昭和13年)6月30日集中豪雨により麻布今井町(現在の六本木四丁目)の三井邸から麻布谷町(現在の六本木二丁目)にかけてがけ崩れが発生。20余戸が押しつぶされて死者23人、重軽傷者20数人[9]

六本木は、明治時代-昭和初期にかけて麻布区に属し、戦後麻布区から港区になったが、住居表示実施前の六本木五丁目と六本木六丁目、六本木七丁目の一部は「麻布六本木町」という麻布の冠称を持った町名であった。行政区分でも港区の地区総合支所のほか警察署消防署郵便局税務署の管轄も、六本木は麻布管内となっている。1965年頃の六本木の地価は坪40万円で、麹町に次いで高かった[10]

1967年7月1日に、この六本木町のほか、龍土町三河台町・今井町・材木町・鳥居坂町・東鳥居坂町・永坂町(約半分)・飯倉片町(の一部)・北日ヶ窪町など麻布地区北部一帯の住居表示が実施され、六本木一丁目から六本木七丁目までの7か町に整理再編された。
地名の由来

6本の松の木があったことに由来する説

青木家一柳家上杉家片桐家朽木家、高木家の各大名屋敷が存在したことに由来する説

などがある。
沿革住居表示実施前後の町名町域対照地図

1869年(明治2年)- 飯倉六本木町、麻布龍土六本木町、麻布北日ケ窪町代地、麻布龍土坂口町、麻布教善寺門前、麻布正信寺門前、麻布光専寺門前、麻布深広寺門前が合併して麻布六本木町成立。

1872年(明治5年)- 周辺の武家地・寺地を合併して、町域を確定する。

1878年(明治11年)11月2日 - 大区小区制廃止、郡区町村編制法施行により、東京府麻布区の一部となる。

1889年(明治22年)5月1日 - 市制施行により、東京府東京市麻布区の一部となる。

1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行により、東京都麻布区の一部となる。

1947年(昭和22年)3月15日 - 東京都港区の一部となる。

1967年(昭和42年)7月1日 - 住居表示を実施し、六本木一丁目から七丁目となる[11]

1978年(昭和53年)9月1日 - 六本木六丁目の町域を拡大する[12]

町名の変遷

実施後実施年月日実施前(特記なければ、各町名ともその一部)
六本木一丁目
1967年7月1日赤坂榎坂町(全域)、赤坂霊南坂町(全域)、麻布市兵衛町一丁目、麻布市兵衛町二丁目、麻布箪笥町、麻布谷町
六本木二丁目麻布箪笥町、麻布谷町、麻布今井町
六本木三丁目麻布仲ノ町(全域)、麻布市兵衛町二丁目、麻布箪笥町、麻布谷町、麻布今井町、麻布三河台町
六本木四丁目麻布市兵衛町二丁目、麻布今井町、麻布三河台町
六本木五丁目麻布鳥居坂町(全域)、麻布東鳥居坂町(全域)、麻布飯倉片町、麻布永坂町、麻布南日ケ窪町、麻布北日ケ窪町、麻布六本木町
六本木六丁目麻布桜田町(全域)、麻布宮村町(全域)、麻布南日ケ窪町、麻布北日ケ窪町、麻布材木町、麻布六本木町、麻布霞町
1978年9月1日麻布南日ケ窪町(全域)
六本木七丁目1967年7月1日麻布龍土町(全域)、麻布新龍土町(全域)、赤坂青山南町一丁目(全域)、麻布材木町、麻布六本木町、麻布霞町

繁華街

六本木近辺の軍事施設は太平洋戦争中の空襲で焼失。終戦に伴い、日本の占領にあたった連合国軍に接収される。そのため、外国人向けの商店や飲食店が少しずつできるようになる。また、1959年にはNET(日本教育テレビ、現:テレビ朝日[注釈 1]が開局し、この頃に六本木族が登場する。

1960年代に入ると日本料理の瀬里奈をはじめとして中華料理の香妃園や魯山、イタリア料理のアントニオなどが芸能人やファッションモデル、来日した海外のスターらが出入りする店として徐々に知られるようになった。1960年代後半からは高台以外の住宅街へ押し入るように外国人や日本人向けの飲食店、若者向けのサパークラブ、ゴーゴークラブなどのオープンが続き、結果として住宅街から繁華街へと姿を変え、1975年(昭和50年)以降は赤坂に代わる人気プレイスポットとして有名になっていく。

1980年代後半からのバブル経済期には六本木スクエアビルを中心としてディスコだけで数十軒が立ち並び、大衆化が進むとともに活況を呈したが、その後のバブル崩壊とともに、1993年(平成5年)以降は多くの店が閉店し、カラオケ店やキャバクラなどに衣替えした。

現在、平日は昼夜を問わずサラリーマンやOLの姿が目立ちオフィス街としてのイメージも強くなった他、六本木一丁目にはスペイン大使館スウェーデン大使館などの外国公館や、六本木七丁目の在日米軍施設(ヘリポート星条旗新聞社ほか)などもあり外国人の姿も目立つ。

週末の金曜日・土曜日の夜になるとバークラブ、キャバクラなどが林立する繁華街の様相を呈する。クラブ目当ての若者や外国人のほか、キャバクラ嬢や外国人の客引きが街頭に出ている姿が見られる。また、傷害事件やカジノ賭博麻薬密売等の違法行為も存在し、時折検挙等により明るみに出ることがある[13]


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