六本木ヒルズ
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六本木ヒルズが建設される前、この地にはかつて約500世帯が暮らしていた[4]。また、計画の立案後にはバブル崩壊や反対派住民による抵抗などの紆余曲折があり、その完成までには約17年の歳月を要した[4]
前史

江戸時代に、麻布日ケ窪町(現在の六本木6丁目)に長府毛利家長州藩支藩長門府中藩)の江戸藩邸が置かれた。長門府中藩(長府藩とも。現山口県下関市の一部)出身の乃木希典もこの地で生まれている。

明治時代には、法律家増島六一郎中央大学の前身である英吉利法律学校の創立者の1人で初代校長)の邸宅になった。第二次世界大戦の戦災に遭った後、1952年ニッカウヰスキーの工場、後に日本教育テレビ(NETテレビ)(後の全国朝日放送 (ANB)→テレビ朝日 (EX))の敷地となった。また、日本で最初の美容室として知られるメイ牛山のハリウッドビューティサロンやハリウッド化粧品、ハリウッド美容専門学校の広大な敷地が戦前からあった。現在のメトロハット、ろくろくプラザ、ハリウッドビューティプラザの辺りである。下に通るトンネルは、ハリウッドの社屋があった跡に掘削されたことで、「ハリウッドトンネル」と呼ばれていた。

かつては広大な毛利家の庭園が残っていた(毛利甲斐守邸跡)。園内の池はニッカ?テレ朝時代にニッカ池という通称が付き[5]テレビ朝日の番組『さんまのナンでもダービー』で一部に知られるようになる(同番組の中期以降は「ダービー池」と呼称していた)。現在、敷地内には面積約4300平米 (m2)の毛利庭園が設けられ、「毛利池」があるが、これはニッカ池とは異なる。かつての庭園遺構は毛利池の下に埋土保存されている[6]

また、東京都立駒場高等学校の前身に当たる東京府立第三高等女学校と、駒澤大学の前身で1882年明治15年)に開校した曹洞宗大学林専門本校があった場所も六本木ヒルズの一角に当たる。北欧家具の販売店やレストラン・ストックホルム(現在は赤坂エクセルホテル東急のショッピングアーケードであるピンク坂プラザへ移転)があったスウエーデンセンター、宝タクシーの跡地周辺はスーパーマーケットなどとなった。その他、メトロハットになっている場所は、西武/セゾングループの文化・音楽拠点の一つだった六本木WAVE(地下に西武百貨店が開設後、西友を経て、閉館時には東京テアトルが経営・運営していた映画館「シネ・ヴィヴァン・六本木」があった)の跡である。
経緯

六本木ヒルズ誕生前は、テレビ朝日周辺の六本木六丁目(かつての麻布材木町・麻布北日ヶ窪町)は、木造住宅密集地だったこともあり道路が狭く、東京消防庁消防車が通行する事も困難な状況であった。このため1990年平成2年)、テレビ朝日本社の移転も兼ねた都市再開発計画地域に指定された。愛称で「六六(ろくろく)」と呼ばれているのも、六本木六丁目が由来となっている。なお、この付近の都市再開発の先行事例として、同じく森ビルが行った赤坂アークヒルズがある。

開発の事業費は、権利床1,000億円は森ビルが銀行借入をもとに拠出し、保留床2,700億円はSPC「六本木ヒルズ・フィナンシャルコープ株式会社」で森ビルの出資1,000億円、日本開発銀行の融資700億円、民間金融機関の融資1,000億円により調達された[7][8]
建設

1984年 - アークヒルズ完成に伴いテレビ朝日の本社が一時移転。権利変換により森ビルが地権者となり、ここを中心にアークヒルズに続く大規模な都市再開発計画が同社内でスタートした。

1984年 - この大規模な都市計画が六本木六丁目であることから、66再開発と呼ばれた。

1993年 - 森ビルの働き掛けをきっかけに東京都も加わり、「六本木六丁目地区第一種市街地再開発事業」を開始。住民による勉強会が行われる。

1995年 - 東京都が都市計画決定を告示。この年の阪神・淡路大震災を教訓に、耐震構造が組まれる。

1996年 - 「6.6プラン」を発表。

1997年 - 港区が地区の区域の公告を実施。東京都・港区・公共施設管理者が同意に至り、最終計画案がまとまる。

1998年 - 六本木六丁目地区再開発準備組合を設立。

1999年 - 東京都権利変換計画が認可され、仮住居への入居を開始。

2000年 - 着工。ピーク時には1万人近くの工事作業員が作業に携わる(総事業費約2,700億円)。テレビ朝日もこの年の2月末までこの地にあったので、着工時は江東区東陽町に仮設のスタジオ棟を、また新宿区四谷にも中規模スタジオを建設して対応していた。

2000年7月 - 森ビルが、東京日産本社ビルを買収。ZONE六本木ビルを経て、六本木ヒルズノースタワーに名称変更。

2003年4月2日 - グランドオープンを控えた六本木ヒルズに、ロシア連邦ボリス・エリツィン初代大統領が視察。森社長と六本木ヒルズの記念品を交換する。内装仕上げなど多くの関心を示される。

2003年4月22日 - 六本木ヒルズのオープニングーセレモニーが行なわれた。出席した小泉純一郎首相は「この東京の新たな街づくりに極めて刺激的、魅力的な六本木ヒルズが誕生したという、この誕生に立ち会うことができたのは幸運だと思います」と祝賀挨拶した。

2003年4月25日 - 開業(街開き)。10月、テレビ朝日の本社・スタジオが東陽町、四谷から戻る(東陽町はその後解体、四谷は他者に譲渡)。

完成後

2005年(平成17年)5月20日来日したロシア連邦のウラジーミル・プーチン大統領は、六本木ヒルズ展望台(52階)を訪れ、開催中の日ロ修好150周年を記念した友好アート展を見学した[9]

開業以来の来街者数は開業5年目で累計で約2億人となる。内訳は初年度4,500万人、2004年度4,400万人、2005年度4,400万人、2006年度4,300万人、2007年度4,200万人、2008年度4,500万人となる[10]。その後も年4000万人程度を維持し、2018年の開業15周年までに累計6億人を超えた[11]

作曲家の坂本龍一が、六本木ヒルズの誕生を祝って祝典音楽を作品化した。曲名は『The Landsong?music for Artelligent City?』で六本木ヒルズのテーマ曲となる[12]

オープン時のキャッチフレーズは「六本人、生まれる。」であり、テレビCMも流れていた[13]
高所得者の象徴

住居棟である六本木ヒルズレジデンスには地権者のほか、大物俳優・タレントやトップミュージシャンなどの著名人、富裕層が数多く居住した。また、オフィス棟である六本木ヒルズ森タワーには、株式を公開したITベンチャー企業は相次いでオフィスを設けた。 これらの企業の経営者たちは、若くして成功したことでマスコミなどに注目されるようになった。IT関連などの企業も多く入居し、「六本木ヒルズ族」(六本木ヒルズ住民)という言葉が使われる様になった。

2018年時点では総戸数のうち約3割は外国人が暮らす。住民は商業店舗も交えた「六本木ヒルズ自治会」を組織し、交流や清掃活動などに取り組んでいる[14]
上棟記念パーティ

2002年(平成14年)4月8日に都内で森ビルの六本木ヒルズ上棟記念パーティーが行われた。

前日上棟式を行った54階建て事務所棟A(森タワー)の40階で開催されたパーティーには、小泉純一郎首相を始め、平沼赳夫経済産業相竹中平蔵経済財政担当相石原伸晃行政改革担当相など大物閣僚がズラリと揃った。ほかにも森喜朗前首相、綿貫民輔衆議院議長野田毅保守党党首、藤井裕久自由党幹事長中川秀直官房長官佐藤静雄国土交通副大臣など大物政治家が顔を揃えた。


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