公爵
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叙爵内規では公爵の基準について「親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 旧摂家 徳川宗家 国家二偉勲アル者」と定められていた[8]。具体的には以下のようになっている。
親王諸王ヨリ臣位に列セラルル者 - 「親王諸王」とは後の1889年(明治22年)制定の皇室典範で「皇子より皇玄孫に至るまでは男を親王」「五世以下は男を王」と定められるが、華族令制定当時(明治17年当時)においては明確な定義はなかった[26]。当初は伏見宮家桂宮家有栖川宮家閑院宮家四親王家以外の皇族の子は華族に列することになっていたが、実際には該当者は維新の功により皇族となったので(これにより親王家は4家から15家に増えていた)、華族令制定当時において「親王諸王より臣位に列せらるる者」に該当する者は存在しなかった[26]。皇族急増により1907年(明治40年)2月11日の皇室典範増補第1条で「王は勅旨又は請願に依り家名を賜い華族に列せしむることあるべし」と定められたことで臣籍降下で華族になる例が増えてくるが、公爵になった者はおらず、侯爵伯爵だった[26]

摂家。公家社会でも最高位に属するとされ、摂政関白に昇る資格を持っていた家柄である。近衛家鷹司家九条家一条家二条家の計5家。

徳川宗家 - 旧将軍家・旧静岡藩主の徳川宗家のことである。

国家二偉勲アル者 - 勲功華族の規定。侯爵以下の爵位の勲功華族の規定は「国家ニ勲功アル者」になっているのに対し、公爵のみ「偉勲」が要求される。これは3種に大別できる。
「偉勲」がなくとも華族たる資格を持っていた家のうち、功績が加味されて本来よりも高い爵位を与えられたグループ。旧清華家三条家(家格では侯爵[27]だが三条実美の功績により)、旧羽林家岩倉家(家格では子爵[27]だが岩倉具視の功績により)、旧薩摩鹿児島藩主島津家(家格では侯爵[27]だが島津忠義の功績により)、旧長門萩藩主毛利家(家格では侯爵[27]だが毛利敬親元徳の功績により)の4家がこれにあたる。また、後年侯爵から陞爵した旧清華家西園寺家西園寺公望の功績により)、旧清華家徳大寺家徳大寺実則の功績により)、旧水戸藩主水戸徳川家(『大日本史』編纂の功績により)の3家もこれに含めて考えられる。

本家がすでに公爵となっているにもかかわらず、その人物の特別な功績が認められて別に家を立てることを許され、さらに公爵位を授けられたグループがある。具体的には、藩主ではなかったがその後見人として幕末薩摩藩に大きな影響を与えた島津久光とその子孫(玉里島津家)、大政奉還後に養子の徳川家達に家督を譲って隠棲した江戸幕府第15代将軍の徳川慶喜とその子孫(徳川慶喜家)の2家である。叙爵内規上明治以降の華族の分家は男爵と定められていたのでこの二家は岩倉家の三階級特進を超える四階級特進だったといえる[28]

家系によらず、初代の勲功によって公爵となったグループ。伊藤博文伊藤家大山巌大山家山縣有朋山縣家松方正義松方家桂太郎桂家の五家である。いずれも内閣総理大臣など国家中枢の役職を歴任して元勲と称された人々であり、当初子爵ないし伯爵の爵位を受け、その後、日清戦争や日露戦争などで勲功を重ねて侯爵を経て陞爵したものである[29]


日本の公爵家一覧

家紋家名(通称等)受爵者
襲爵者旧家格
出自叙爵年
所在など
近衛家近衛篤麿
近衛文麿旧摂関家
藤原北家嫡流(近衛流嫡流)1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
1945年(昭和20年)12月16日、返上。
東京市淀橋区下落合
鷹司家鷹司熙通
鷹司信輔旧摂関家
藤原北家嫡流(近衛流)1884年(明治17年)7月7日、叙爵。
東京市目黒区上目黒[30]
九条家九条道孝
九条道実


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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