公暁
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 凡例公暁
公暁(月岡芳年「美談武者八景 鶴岡の幕雪)
時代鎌倉時代前期
生誕正治2年(1200年)
死没建保7年1月27日1219年2月13日
改名善哉(幼名)、頼暁
別名阿闍梨
戒名不明
墓所不明
幕府鶴岡八幡宮第4代別当
1217年 - 1219年
氏族清和源氏頼信河内源氏
父母父:源頼家、母:辻殿
兄弟一幡、公暁、栄実禅暁竹御所
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公暁(くぎょう / こうきょう / こうぎょう、正治2年〈1200年〉 - 建保7年1月27日1219年2月13日〉)は、鎌倉時代前期の僧侶鎌倉幕府2代将軍源頼家の次男(『尊卑分脈』など)または三男(『鶴岡八幡宮寺社務職次第』など)。
名前の読みについて

公暁の名は江戸時代以降呉音読みで「くぎょう」と呼ばれており、明治時代の『国史大辞典』で「クゲウ」とされて以降、主な歴史関係の書籍では「くぎょう」と読まれて来た[1]。 一方で『承久記』の異本で鎌倉時代に成立したとされる[注 1]『承久軍物語』では公暁は「こうきょう」と書かれ、1550年頃に成立した尊経閣文庫本『承久記』では「こうせう」と書かれている[2]天明年間の『承久兵物語』では「こうきやう」と書かれているが[2]寛永版『吾妻鏡』の版本では「クゲウ」の読みが振られており、徳川光圀によって編纂が命じられた『新編鎌倉志』でも受け継がれた[3]

公暁の名は師の貞暁と公胤から取られたものとされているが、公胤とその師公顕は当時の記述では「こういん」「こうけん」と呼ばれている[4]。通常僧侶の戒名は呉音で読まれることが多いが、公胤が属していた園城寺では、法名を漢音で読む風習があった[5]。このため「公暁」の読み方も漢音に基づく「こうきょう」もしくは「こうぎょう」ではないかと複数の研究者が指摘している[3][5][6]
生涯
誕生

公暁は正治2年(1200年)二代鎌倉殿源頼家と正室辻殿の嫡男として誕生。幼名は善哉(ぜんざい)。頼家の子で次男、辻殿の出産した初の男子である。祖父源頼朝の死から翌年の事である。

母は既述の通り足助重長(加茂重長)の娘の辻殿であるが、これは『吾妻鏡』による。『尊卑分脈』などによれば一幡の母と同じく比企能員の娘若狭局、縣篤岐本『源氏系図』によれば三浦義澄の娘となっている。一幡は異母兄または同母兄、栄実は異母弟または異母兄、禅暁は異母弟または同母弟、竹御所は異母妹または同母妹にあたる。
出家

父である将軍頼家は建仁3年(1203年)9月の比企能員の変によって鎌倉を追放され、翌年善哉が4歳の時に北条氏の刺客によって暗殺された。建永元年(1206年)6月16日、7歳になった善哉は若宮の別当坊より祖母である尼御台北条政子の邸に渡り、着袴の儀式を行う。10月22日、乳母夫である三浦義村に付き添われ、政子の計らいによって叔父の3代将軍源実朝猶子となった。建暦元年(1211年)9月15日に12歳で鶴岡八幡宮別当定暁[注 2]の下で出家し翌日には受戒のため上洛する。園城寺において公胤の門弟として入室し、はじめは頼暁という戒名を受け、公胤の弟子となってからは公暁の戒名を受けたものと見られる[7]
鶴岡八幡宮別当

建保5年(1217年)6月20日、18歳で鎌倉に戻り、政子の意向により鶴岡八幡宮寺別当に就任した。同年10月11日からは裏山で千日参篭をおこなう。翌建保6年(1218年)12月5日、公暁が鶴岡に参籠して退出しないままいくつかの祈誓を行っているが、一向に髪を下ろす事もしないので人はこれを怪しんだという。また伊勢太神宮や諸社に奉幣する使節を送った事が将軍御所で披露されている。
実朝暗殺

年が明けた建保7年(1219年)1月27日、が2(約60cm)ほど降りしきるなか、実朝が右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣する。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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