公暁
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^ 北条義時(北条氏)黒幕説は、古くは新井白石が『読史余論』で唱えており、代表的なものとして龍粛(『鎌倉時代 下(京都)』春秋社、1957年)、安田元久(『北条義時』吉川弘文館、1961年)などがいる。『吾妻鏡』に義時が体調不良を理由として事件直前に現場を離れたと記されていることを根拠とするが、『愚管抄』によれば義時は実朝の命により太刀を捧げて中門に留まっており、儀式の行われた本宮には同行しておらず自邸に戻ったともされていない。また実朝に同行した源仲章が義時と誤認されて殺されたと記されており、公暁の標的は実朝と義時であって、義時が暗殺を免れたのは全くの偶然ということになる。義時の離脱と公家である源仲章への役目交替を「将軍暗殺」という不祥事を招いた武家の失態を隠すための『吾妻鏡』の曲筆とする平泉隆房による疑義も出されている「『吾妻鏡』源実朝暗殺記事について」(『皇学館論叢』133号、1990年)。
^ 三浦義村(三浦氏)黒幕説は、永井路子が小説『炎環』(光風社、1964年)で義村黒幕説を描いて以来注目され、石井進がその可能性を認めた(『日本の歴史7 鎌倉幕府』中央公論社、1965年)ことで浮上した。他に大山喬平『日本の歴史9 鎌倉幕府』(小学館、1974年)、上横手雅敬「承久の乱」(安田元久 編『古文書の語る日本史3 鎌倉』筑摩書房、1990年)、美川圭『院政』(中公新書、2006年)などが支持している。ただし、牧氏事件和田合戦などで実朝側近として活動し、承久の乱伊賀氏事件などでも常に北条氏に協力していた義村がこの時だけ反逆するのかという疑問や、直接手を下した公暁の将軍擁立は御家人たちに支持されがたい、事件後も北条氏と三浦氏に疎隔が見られないなどとする批判もある。
^ 鎌倉御家人共謀説は、五味文彦「源実朝?将軍独裁の崩壊」(『歴史公論』、1979年)が提唱したもので、実朝は北条氏の傀儡ではなく将軍親裁が機能しており、後鳥羽上皇との連携を目指した実朝に対し、義時と義村は手を結んで実朝および後鳥羽院と実朝を結びつける後鳥羽院の近臣源仲章の排除に乗り出したと主張しており、本郷和人(『承久の乱』(文春新書、2019年)が支持している。ただし、北条義時黒幕説と同様の理由で成り立たないとする批判もある。
^ 後鳥羽上皇黒幕説は、谷昇「承久の乱に至る後鳥羽上皇の政治課題 -承久年中「修法群」の意味-」(『立命館文学』588号、2005年)が提唱し、実朝暗殺と前後する1月22日から28日にかけて上皇が国家安泰とともに政敵の調伏を祈願する五壇法が実施され、実朝暗殺の報が届いた直後の2月6日に五壇法が再度行われた他、同日に他に4つ、10日も2つの修法が行われていることを指摘して、後鳥羽上皇が京都で育った公暁を利用した実朝暗殺に加担し、自らは京都にて暗殺事件を機に幕府が崩壊することもしくは宮将軍の擁立による幕府掌握を祈願していたと主張している。
^ 一連の黒幕論に関しては谷昇『後鳥羽院政の展開と儀礼』(思文閣出版、2010年)P179を参照。
^ 山本幸司『日本の歴史9 頼朝の天下草創』(講談社、2001年)、永井晋『鎌倉源氏三代記』(吉川弘文館、2010年)、坂井孝一『源実朝』(講談社、2014年)、高橋秀樹『三浦一族の中世』(吉川弘文館、2015年)、矢代仁『公暁』(ブイツーソリューション、2015年)、呉座勇一『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021年)、山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館、2021年)など。

出典^ 舘隆志 2017, p. 27.
^ a b 舘隆志 2017, p. 166.
^ a b 舘隆志 2017, p. 167.
^ 舘隆志 2017, p. 165.
^ a b 坂井孝一『源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか』PHP研究所〈PHP新書〉、2020年12月15日。ASIN B08QHGMZPY。 
^ “公暁の読み方について 駒澤大専任講師 舘隆志氏”. 中外日報. (2022年4月11日). https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20220401-001.html 2022年4月14日閲覧。 
^ 舘隆志 2017, p. 164.
^ “【第六次】大河ドラマ「鎌倉殿の13人」新たな出演者決定!”. NHKオンライン. 日本放送協会 (2022年3月1日). 2022年4月14日閲覧。

参考文献

石井進『日本の歴史 7 鎌倉幕府』中公文庫、1974年。

山本幸司『頼朝の天下草創』講談社学術文庫、2001年。

奥富敬之『吾妻鏡の謎』吉川弘文館、2009年。

谷昇『後鳥羽院政の展開と儀礼』思文閣出版、2010年。

舘隆志「公暁の法名について」『印度學佛教學研究』第61巻第1号、日本印度学仏教学会、2017年1月、doi:10.4259/ibk.61.1_164、.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit;word-wrap:break-word}.mw-parser-output .citation q{quotes:"\"""\"""'""'"}.mw-parser-output .citation.cs-ja1 q,.mw-parser-output .citation.cs-ja2 q{quotes:"「""」""『""』"}.mw-parser-output .citation:target{background-color:rgba(0,127,255,0.133)}.mw-parser-output .id-lock-free a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/65/Lock-green.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-limited a,.mw-parser-output .id-lock-registration a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .id-lock-subscription a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Lock-red-alt-2.svg")right 0.1em center/9px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4c/Wikisource-logo.svg")right 0.1em center/12px no-repeat}.mw-parser-output .cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:none;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;color:#d33}.mw-parser-output .cs1-visible-error{color:#d33}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#3a3;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right{padding-right:0.2em}.mw-parser-output .citation .mw-selflink{font-weight:inherit}ISSN 1884-0051。
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