公明党
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10月 自民党総裁選挙における二階堂進擁立に矢野らが協力[73]。詳細は「二階堂擁立構想」を参照

1986年(昭和61年)
再び衆参同日選挙となる。第14回参議院議員通常選挙において10人当選。参議院の議席数は3議席減の24議席に。第38回衆議院議員総選挙でも2議席減の56議席に。12月 委員長に矢野絢也、書記長に大久保直彦が就任[73]

1989年(平成元年)
委員長に石田幸四郎、書記長に市川雄一が就任[73]。第15回参議院議員通常選挙では自民党への逆風による批判票が社会党1党のみへ流れたため獲得議席は10議席。参議院全体で3議席減の21議席と議席を減らしたが選挙直後の総理大臣指名選挙では参院での決選投票で公明党は社会党委員長土井たか子を支持し自民党総裁海部俊樹を破る[注釈 6]
1990年代

1990年(平成2年)
第39回衆議院議員総選挙では再び自民党への逆風、批判票が社会党1党のみへ流れたため公明党は45議席へと議席を減らす。4月 「4野党連合政権協議」を凍結
[73]

1991年(平成3年)
2月 湾岸戦争に対する90億ドルの追加支援に賛成[73]。4月 1991年東京都知事選挙において、自民党と共に磯村尚徳を擁立したが、自民党都連が推した現職の鈴木俊一に敗北[73]

1992年(平成4年)
6月 PKO協力法成立に協力[73]。7月 第16回参議院議員通常選挙において一部の選挙区で初めて自民党と選挙協力を行なう。また議席は24議席へ。

1993年(平成5年)
8月 細川護熙日本新党党首を首班とした非自民・非共産連立政権である細川内閣に参画し、結党以来初の与党入りを果たす。総務庁長官として委員長の石田が、郵政大臣として神崎武法が、労働大臣として坂口力が、環境庁長官として広中和歌子がそれぞれ入閣。

1994年(平成6年)
4月 羽田孜副総理を首班とした非自民・非社会・非共産の羽田連立政権に参画。石田が再任され、他3人に代わり、運輸大臣として二見伸明が、郵政大臣として日笠勝之が、建設大臣として森本晃司が、科学技術庁長官として近江巳記夫が、環境庁長官として浜四津敏子がそれぞれ入閣。6月 総理大臣指名選挙で海部俊樹支持も社会党委員長村山富市に敗北。村山内閣自社さ連立政権)の成立により野党に転落。12月4日 自民党が参議院特別委員会に池田大作名誉会長の参考人招致を画策、公明党員が委員長室前でピケを行い抵抗。その後、池田の招致は見送られ、創価学会第5代会長の秋谷栄之助が参考人として出席。「政治に大衆の声を反映していく政治の実現を願って公明党の支援をして来た」、「政党が政権を目指すというのは当然のこと」、「政治によって何か利益を得るとか政治の力を借りて布教をするとか、自分達の宗教国教化しようなどということは毛頭考えていない」などと述べる[76]。12月5日 「公明党」を解散し、政党助成法に基き「公明新党」と「公明」に分党。12月10日 公明新党が新進党へ合流。

1995年(平成7年)
1995年東京都知事選挙石原信雄を与野党相乗りで推薦したが青島幸男に敗北、同日に行われた大阪府知事選挙でも推薦候補が横山ノックに敗北7月23日 第17回参議院議員通常選挙で新進党として初選挙に臨む。新進党は比例区第1党になり比例区で新進党は18人当選。選挙区でも躍進し自民党の単独過半数を阻止。

1996年(平成8年)
1月18日 自民党が運動方針の中に、「いま、わが国の政治にとって最も憂うべきは、宗教団体・創価学会が新進党という政党の皮をかぶって国民を欺き、政治の権力を握ろうと画策していることである」という内容を盛り込む[77]

1997年(平成9年)
5月 旧・公明党系議員らが新進党内に党内グループ「公友会」を設立[78]。12月27日 新進党両院議員総会で分党が決定。

1998年(平成10年)
1月4日 新進党から分党して新党平和、黎明クラブ(参議院議員が所属)が発足した。1月6日 新進党の存続政党・小沢自由党に公明系から8人が参加1月18日 公明が黎明クラブと合併し、参議院は公明に一本化される。7月12日 第18回参議院議員通常選挙において9人が当選。議席数は前回と同数の22議席に。直後の総理大臣指名選で菅直人初代民主党代表を支持し参議院では小渕恵三自民党総裁を破る。11月7日 「公明」と「新党平和」が合流し小沢自由党結党参加の議員も加わり「公明党」を再結成1998年沖縄県知事選挙で自民党推薦の新人稲嶺恵一を推薦し、現職大田昌秀を破る。

1999年(平成11年)
1999年東京都知事選挙で自民党が擁立した明石康を小沢自由党都連と共に推薦するも、石原慎太郎に完敗。10月5日 自民党と自由党の連立政権に加わり、自自公連立政権(第2次小渕改造内閣)が成立、5年ぶりに与党復帰。続訓弘が総務庁長官として入閣。
2000年代

2000年(平成12年)
4月1日 連立離脱の小沢自由党から保守党が分裂し、自公保連立政権となる。また同日、小渕が病に倒れる。4月5日
第1次森内閣が成立。続が再任6月25日 第42回衆議院議員総選挙で初めて与党側として選挙に臨む。議席は31議席と大きく減らしたが連立政権の過半数は維持7月4日 第2次森内閣が成立。続が再任12月5日 第2次森改造内閣が成立。続に代わり、坂口が厚生大臣兼労働大臣(2001年1月6日の中央省庁再編以降は厚生労働大臣)として入閣

2001年(平成13年)
4月26日 第1次小泉内閣成立。坂口が再任7月29日 第19回参議院議員通常選挙では圧倒的な小泉フィーバーの中で議席を1議席増やす。

2003年(平成15年)
11月 第43回衆議院議員総選挙で初の「マニフェスト」を発表。議席は34議席となる。11月19日 第2次小泉内閣が成立。坂口が再任。また、保守新党解散に伴い、この日以降麻生内閣まで自公連立政権となる。

2004年(平成16年)
7月11日 第20回参議院議員通常選挙では11議席を獲得。議席は24議席となる9月27日 第2次小泉改造内閣が成立。坂口に代わり、北側一雄が国土交通大臣として入閣

2005年(平成17年)
9月11日 第44回衆議院議員総選挙(郵政選挙)では自民党に圧倒的な追い風が吹くも連立を組む公明党へは追い風が吹かず、獲得は自民党の296議席に対し公明党は31議席と逆に議席を減らした。9月21日 第3次小泉内閣が成立。北側が再任

2006年(平成18年)
9月22日 首相就任直前の安倍晋三が池田と極秘裏に東京都内の創価学会の施設で会談し、次回の参院選での公明党や創価学会の協力を要請し、池田は協力を約束したと日経・毎日・朝日・読売の各紙、『週刊文春』が詳細を報じた。9月26日 第1次安倍内閣が成立。北側に代わり、冬柴鐵三が国土交通大臣として入閣9月30日 第6回公明党全国大会において、公明党代表に太田昭宏無投票当選、幹事長に北側が就任。10月11日 党代表の太田が、週刊文春が報じた安倍と池田との会談について「全く承知していない」と語り、安倍も国会で池田との面会の事実を全面否定した[79][80]
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