公明党
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しかしながら、2017年の第48回衆議院議員総選挙では、自公両党で319議席を獲得し圧勝したものの、公明党自体は総選挙直前に誕生した旧民主党・民進党系の立憲民主党希望の党の新党の間に埋没する形となったことも影響し、下野した第45回衆議院議員総選挙以来8年ぶりに、小選挙区(神奈川県第6区)で落選者が発生し小選挙区8議席、比例代表も定数削減のあおりを受け特に北関東ブロック・南関東ブロックを中心に得票を減らし21議席に終わり、合計29議席となり、目標としていた公示前議席維持の35議席を下回った[68]

2019年7月の第25回参院選では、公認候補者を擁立した7つの選挙区(埼玉東京神奈川愛知大阪兵庫福岡)において、前回に続き全勝。比例でも7議席を獲得し、合わせて14議席を獲得。これは前回・2016年に並ぶ最多議席となった。自公連立政権の与党は併せて改選定数124の過半数(63)を超える計71議席を獲得したが、改選議席(77)からは6減らした。非改選議員を含めた参院全体では自民・公明の連立与党、それに改憲に前向きな野党の日本維新の会と無所属を加えた「改憲勢力」の非改選議席は79と参議院における全議席の3分の2である85議席を超えず、日本国憲法改憲の発議が可能な圧倒的多数となる3分の2を確保できなかった[69]

2021年10月の第49回衆議院議員総選挙では、小選挙区の公認候補9名全員と比例区23名の当選を果たし、公示前から3議席増の32議席を獲得した(比例代表:得票数 7,114,282、得票率 12.38%)。自由民主党(261議席)、立憲民主党(96議席)、日本維新の会(41議席)に次ぐ第4党となり、自公両党では過半数の293議席を獲得して圧勝した。

2022年7月の第26回参議院議員通常選挙では、選挙区の公認候補7名全員と比例区6名の当選を果たし、公示前から1議席減の13議席を獲得した(比例代表:得票数 6,181,431.938、得票率 11.66%)。非改選との合計で27議席となり、自由民主党(119議席)、立憲民主党(39議席)に次ぐ第3党となった。自公両党では76議席を獲得して圧勝した。しかし、比例獲得票が目標の800万票を大幅に下回る618万票になるなど、支持層の高齢化による組織力の衰えも指摘された[70]

2023年4月の第20回統一地方選挙では、現在の公明党が再結成された1998年以降で最多となる12人の落選者を出した。山口は選挙結果について「日本維新の会の新人が積極的に立候補し、大量得票した。一方で投票率がそれほど上がっているわけではなく、既存の勢力が割を食った」と述べた[71]。特に練馬区議会議員選挙では前回選と同じ11人を擁立したが、当落線上に公明候補7人が並び、うち4人が落選した。合計得票は3万5000票弱で、前回から約5000票減らており、支持層の高齢化による組織力の弱まりが改めて指摘された[72]
略年表
1950年代

1954年(昭和29年)
創価学会第2代会長・戸田城聖が前年の参院選で組織としての選挙投票依頼を受けたことを機に会に「文化部」を設置し、選挙の出馬予定者を部員に任命
[73][74]

1955年(昭和30年)
11月 第3回統一地方選挙に文化部の会員が出馬。

1956年(昭和31年)
7月 第4回参議院議員通常選挙で3名が当選。8月 戸田が『大白蓮華』に「王仏冥合論」を執筆し、創価学会の政治進出を理論づける[73]

1957年(昭和32年)
6月27日 理事長小泉隆が参議院大阪府選挙区の第3回補欠選挙において買収行為を行なったとされ大阪府警察逮捕される。また同年7月4日には渉外部長だった池田が会員に戸別訪問および買収を指示したとの嫌疑で逮捕、起訴された。詳細は「大阪事件 (創価学会)」を参照

1959年(昭和34年)
6月 第5回参議院議員通常選挙で6人が当選、参議院の総議席数は9議席に。
1960年代

1961年(昭和36年)
11月27日 公明党の前身「公明政治連盟」を発足。

1962年(昭和37年)
7月
第6回参議院議員通常選挙において9人が当選。参議院の議席数は15議席に。自由民主党、社会党に次ぐ第3党となる。

1963年(昭和38年)
1963年東京都知事選挙で、自民党が推薦する東龍太郎を支援[73]

1964年(昭和39年)
11月17日 「公明政治連盟」を改組し、「公明党」を設立。池田が『政治と宗教』(鳳書院)を出版。「王仏冥合」の理念をベースにした政治論を訴える[73]

1965年(昭和40年)
7月4日 第7回参議院議員通常選挙において11人が当選、参議院の議席数は20議席に。

1967年(昭和42年)
衆議院選挙直前に、池田が「憲法擁護」「大衆福祉」「安保の段階的解消」などを含む公明党の方針を公表[73]。1月 第31回衆議院議員総選挙で25議席を獲得し、衆議院に初進出。その後の党人事で衆議院議員の竹入義勝と矢野絢也がそれぞれ委員長と書記長に就任。党の比重を衆議院に重きを置くようになる。

1968年(昭和43年)
7月7日 第8回参議院議員通常選挙で12名が当選、3議席増の23議席となるが、支持母体創価学会による集団替え玉投票事件が起き学会員14名が逮捕されるなど社会問題化する。詳細は「新宿替え玉事件」を参照

1969年(昭和44年)
12月 「言論出版妨害事件」を巡り、「政教一致」に対する社会的批判を受ける。詳細は「言論出版妨害事件」を参照12月27日 第32回衆議院議員総選挙では47議席を獲得、民社党を抜き、社会党に次ぐ野党第2党に。
1970年代

1970年(昭和45年)
5月3日 日本大学講堂における創価学会第33回本部総会において池田が「言論出版妨害事件」について謝罪。「国立戒壇」の教義の撤回、創価学会と公明党の役職の分離などを表明
[73]。矢野が社会党書記長の江田三郎、民社党書記長の佐々木良作らと共に、社公民連合政権構想による『新しい日本を作る会』を結成。

1971年(昭和46年)
6月27日 第9回参議院議員通常選挙において10人当選。参議院の議席数は1議席減の22議席に。第一次訪中団を派遣[73]。日中復交五原則を提案。

1972年(昭和47年)
6月 竹入を団長とする訪朝団が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問。北朝鮮の金日成国家主席との共同声明で、主体思想(チュチェ思想)を指針として、社会主義建設で大きな進歩をとげたことを取り上げた[75]

1973年(昭和48年)
3月 竹入が東京都知事美濃部亮吉と会談し、都議会における与党入りに合意[73]。9月 「中道革新連合政権構想」を発表、「日米安保即時廃棄」に路線転換[73]

1974年(昭和49年)
第10回参議院議員通常選挙において14人が当選、参議院の議席数は24議席に。10月 創価学会と日本共産党の間で「創共協定」が締結。

1977年(昭和52年)
第11回参議院議員通常選挙において14人当選。議席は25議席に。

1979年(昭和54年)
民社党との公民連合政権構想に合意。10月の衆院選において、公明党は57議席を獲得。日本社会党・民社党・社民連新自由クラブの4党と選挙協力し、自民党を過半数割れに追い込む。12月 民社党と「中道連合政権構想」で合意[73]
1980年代

1980年(昭和55年)
1月 社会党と「連合政権構想」で合意
[73]。6月22日 ハプニング解散によって初の衆参同日選挙が実施。選挙期間中に大平正芳総理が逝去、自民党が分裂ムードから融和ムードへと変わったことから参議院においては12人が当選、参議院の議席数は26議席になったが衆議院では票が伸び悩み57議席から33議席へと議席を減らす惨敗を喫した。

1981年(昭和56年)
8月25日 - 8月9日 竹入を団長とする代表団が大韓民国を初訪問。大統領全斗煥をはじめ政府首脳と会談。


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