公明党は宗教団体の創価学会が支持団体(支持母体)である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}他に支持を表明する団体などは不明であるが、過去には旧国鉄の労働組合の一つであった全国鉄道施設労働組合(全施労・国鉄分割民営化に伴い鉄労等と統合しJR総連に再編)など、公明党を支持する労働組合も存在した[要出典]。
第二次世界大戦後、日蓮正宗の信徒団体であった創価学会(1991年に日蓮正宗から破門)が宗教法人として規模を拡大させ、1954年(昭和29年)11月、政界進出を目的として創設した文化部が源流である。文化部は翌1955年(昭和30年)の第3回統一地方選挙で首都圏の自治体議会選挙に候補者を擁立し、合計で53議席を得た。
1956年(昭和31年)には国政進出を果たし、第4回参議院議員通常選挙(1956年)で3議席を、第31回衆議院議員総選挙(1967年)で25議席を獲得した[45]。
初期の政界進出の旗振り役となったのは創価学会第2代会長戸田城聖と後の第3代会長池田大作である。政界進出の動機としては以下が挙げられる。
国民生活を改善するには、密接にかかわっている政治を変革することが大事である。
政界に創価学会の人材を輩出しより良き社会を建設する。
住民のための、住民による政治[46]。
1960年(昭和35年)に池田が第三代会長に就任すると政界進出の動きは加速し、1961年(昭和36年)には政治局、同年11月には政治団体の公明政治連盟(こうめいせいじれんめい)へと改組し、メディアの発信や各界への人材輩出を強化した[47]。
1963年(昭和38年)の東京都議会議員選挙(都議選)では17議席を獲得し、55年体制の下、戦後しばらく日本の国政で二大政党制を構成した自由民主党・日本社会党に次いで第3党に躍進する。
1964年(昭和39年)に創価学会から公明政治連盟が切り離されて独立し、現在の日本の国政政党の公明党が誕生した。11月17日の結党大会は当時国内で最大級の規模を誇る施設であった日本大学講堂(現・両国国技館)で挙行され、1万5000人の党員が集結した。結成大会にはニューヨーク・タイムズ含め外国メディア14社の記者が取材に訪れた[48]。
綱領は次のようなものであった。
一、宇宙時代にふさわしい世界観、恒久平和への新しい指導理念の確立が、今日ほど強く渇仰される時代はない。この待望の指導理念こそ、生命哲学の神髄、王仏冥合の大理念であると堅く信ずる(注:王仏冥合、読み:おうぶつみょうごう=王法とは政治を意味し、仏法とは思想であり生命哲学である。この王法と仏法を冥合させて、社会の繁栄と個人の幸福を一致させるという政治理念[49])。公明党は、王仏冥合の大理念を高く掲げて、地球民族主義にのっとり、人類の危機を救い、世界に恒久平和の礎を築くことを誓うものである。
二、資本主義、社会主義の両体制に共通する基本的欠陥は、人間疎外、人間性の抑圧である。公明党は、豊かなる人間性の尊重を基調とする人間性社会主義によって、個人の幸福と社会の繁栄が一致する大衆福祉の実現を確約するものである。
三、公明党は、国民大衆の中に仏法民主主義、すなわち人間性尊重を基調とした真実の民主主義の基盤をつくり、大衆とともに前進する真実の大衆政党である。言論、思想、信仰の自由等、基本的人権を尊重するはとうぜんである。われわれは大衆とともに語り、大衆のために戦い、大衆の中に死んでいくことを誓うものである。
四、大衆をして政治不信のやむなきにいたらしめたのは、まったく既成政党の重大な責任といわねばならぬ。また政治の賄賂は、とくに選挙の腐敗に端を発する。公明党は、腐敗選挙を徹底的に追放し、腐敗政治と断固戦って、公明なる議会制民主政治を確立することを誓う。
その後、国政では1967年(昭和42年)に衆議院・参議院両院で45議席を獲得する大所帯となり、国会でも第三党の勢力を形成する程になる。この年の党大会では委員長に竹入義勝、書記長に矢野絢也が就任する。結党当初の公明党は国政・地方政治ともに行政当局との関係が希薄であったため、徹底した現場主義・調査主義に力を注いだ。公明党公式ホームページによると公明党参院議員の矢追秀彦がイタイイタイ病の公害病問題解決に尽力した[50]。
特に、安全保障面で在日米軍基地や米国統治下の沖縄の軍事基地問題については防衛施設庁(現在の防衛省の一部)以上の調査を行い、防衛施設庁から「大いに参考になる」とのコメントが発表されるほどであった[要出典]。
公明党の行動は即物的なものが多く、同じ野党でもイデオロギーに基づく抽象的議論を行っていた日本社会党や日本共産党とは対照をなした[51]。これについては、マルクスやエンゲルスに端を発する社会主義(マルクス主義、または科学的社会主義)・共産主義思想というものが、世俗主義・唯物論・無神論的イデオロギーへの波及をも生み、実際に社会主義国・共産主義国(冷戦下での旧東側諸国)においては、市民の信教の自由も実質保障されることもなく、国家・政府による宗教弾圧が行われていったという歴史的背景もある中で、あくまで資本主義が維持される社会の中にあって、宗教的思想をバックボーンにする支持母体が、あまり「左派・右派」や「保守政党・革新政党」といった従来の対立構造に執着することでなく、「中道政党」と謳っているように、政治面で影響を及ぼすという点において、戦後の日本政治における政党としての存在意義を見出しているという[要出典]。 1969年末、創価学会を批判する藤原弘達の著書『創価学会を斬る』の出版中止を、公明党が自民党幹事長田中角栄に働きかけていたことが公になる(「言論出版妨害事件」)。 翌1970年にかけて、創価学会が同様の行為を常習的に行っていたことが露見し、日本国憲法第21条で保障されている「言論の自由」を侵すものとして社会的な批判を受けた。これを発見した不破哲三と日本共産党は国会で徹底追及を行い、藤原に取材も行い、池田の証人喚問まで要求したが、当時の佐藤栄作政権は野党分断を狙って要求をかわし続け、池田の喚問は回避された。以降しばらく、公明党は自民党に対する事実上の閣外協力を余儀なくされる[52]。 1970年5月3日、創価学会総会で池田が事件を謝罪し、創価学会と公明党との間の体質の改革を宣言する。具体的には「政教分離」の徹底で、
言論出版妨害事件と政教分離
創価学会幹部の議員兼職を廃する。池田自身も、今後とも政界進出はしない。
公明党の自立性を高め、創価学会は党の支持団体の立場に徹する。選挙などの政治活動はあくまで党として行い、創価学会は支持団体としての応援に留まる。
「国立戒壇」構想は国教化を意味するものではなく、以降、この言葉を一切使わない。
創価学会会員の活動で問題を起こした時には、厳正に処罰する。