公安委員会_(フランス革命)
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^ 公安委員会の委員は大臣よりも上位の権限を持っていた。これは従来の大臣制度が貴族的なものと見なされて嫌悪されたことに原因があり、この感覚は革命時独特のもの。大臣を監視する民衆代表の位置づけが公安委員であったが、公安委員自身に強い権限が与えられたので、公安委員が事実上の大臣に、大臣が格下げされて事実上の省庁長官になるというような構造になった
^ アンラジェやエベール派が粛清されたことから極左勢力は山岳派主流派を恨んでおり、一部の地区はテルミドールのクーデターのときに支持を見送った。特にグラヴィリエ地区は最左翼であったが、反ロベスピエールに決定的な役割を果たした
^ 国民公会には、議会を守る公会親衛隊(Garde de la Convention)という組織があったが、公会の一機関である公安委員会には、これに相当するものはなかった。公安委員会には上記の権限を行使するために治安局に若干の警察官吏がいただけ
^ 公安委員自身が最前線にいるときや、最前線からの報告を受けた時に限られる。戦略方針の決定は公安委員会の主要な役割の一つで、下部組織・地形測量局が戦略分析を行っていた
^ 反革命容疑者法に指定されているように、これを管轄して執行するのは保安委員会や監察革命委員会(革命委員会と後に改称)であり、革命軍(フランス語版)(民兵組織のこと)にも同様の権限があった。前述のようにその後には公安委員会にも拘引・逮捕の権限も付与されたが、実務的には公安委員会が命じた場合においても、警察活動は保安委員会か革命軍を介して行われた。監視委員会はまさに革命の秘密警察と言うべき組織で、思想弾圧やスパイのようなことをしていた
^ 恐怖政治の犠牲者の生き死にを実際に決めていたのは、革命裁判所と検事、およびその陪審員団である。弁護士も証拠も途中から必要なくなったため、判決は主に陪審の心証に依存した
^ 後述するが、恐怖政治を最初に予言したのはマラーであり、政局として要望したのは(マラーと同じくコルドリエ派の流れを汲む)エベール派で、特に後者はロベスピエールの政敵であった。恐怖政治の到来は内戦勃発と深い関係がある
^ 「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対的に腐敗する」 歴史学者J・E・アクトンの言葉
^ 議会が解散し、再選挙がある予定であったため
^ 司法、内務、外務、海軍、戦争(陸軍)、財務(公共租税)の6大臣
^ もともとブルボン王政時代からフランスには首相や内閣などという制度はなく、各部門別の国務会議とそれを総合する最高国務会議があるだけで、つまり国王の親政を前提にした国体であった。1791年憲法の結果として大臣制度が誕生したが、イギリスなどと違って首相に相当する地位はなく、当時のフランスにおける総理大臣は大臣の欠員がでた際に兼務できる大臣のことで、大臣同士は対等な関係であった。このため国王存在がなくなると、中心がなくなり、強いリーダーシップを発揮できない構造だった
^ 当時のイギリスは、現在と違って、ウィンザー家のもともとの領地であるハノーヴァーやオスナブリュック大司教領など大陸に領土を持っていた。またオランダも歴史的に関係の深い主要な交易相手として権益が絡む国であり、フランス軍の直接の脅威からこれらを守るために、イギリスは大陸に軍隊を派遣することになった
^ 戦争(陸軍)委員会、財政委員会、植民委員会、海軍委員会、憲法委員会、外交委員会の6つ。1月31日に陳情書・通信委員会がこれに加わった
^ a b 平原派の代表的政治家。カメレオンの渾名を持ち、時期によって政治信条が異なるが、シェイエスなどと共に革命の全期で活躍した
^ 25名の議員の内訳は、デュボワ=クランセ (fr:Dubois-Crance) 、ペティヨン (fr:Petion) 、ダントン、ジャンソネ (fr:Gensonne) 、シェイエス、ギュイトン=モルヴォー (fr:Guyton-Morveau) 、M・ロベスピエール、バルバルー (fr:Barbaroux) 、リュール (fr:Ruhl) 、ヴェルニョー (fr:Vergniaud) 、ファーブル・デグランティーヌ (fr:Fabre d'Eglantine) 、ビュゾー、デルマ (Delmas) 、ガデ (fr:Guadet) 、コンドルセ (fr:Condorcet) 、ブレアール、カミュ (fr:Camus) 、プリュール・ド・ラ・マルヌ (fr:Prieur de la Marne) 、カミーユ・デムーラン、バレール、ジャン・デブリ (fr:Debry) 、イスナール、ラズルス (fr:Lasource) 、キネット (fr:Quinette) 、カンバセレス。山岳派とジロンド派、平原派、つまり左右中道それぞれ、マラーとブリッソーを除く主要政治家のほとんどが含まれていた
^ 元外相で、北方軍司令官であったデュムーリエ将軍はオルレアニストで、国王処刑を革命の行き過ぎと判断し、パリに進撃してジャコバン派を一掃して王権を回復する陰謀を企てていた。彼は敵司令官と勝手に交渉し、公会が派遣した議員と戦争大臣を拘束して引き渡した。軍をパリに向けようとしたが、兵士に拒否され、部下のダヴー大佐に逮捕されそうになって、慌ててオーストリア軍に亡命した
^ ちなみに戦争大臣(Ministres de la guerre)というのはフランス独特の表現で、陸軍大臣と同義。1930年代までフランスではこの表現だったが、現在は国防大臣(Ministre de la Defense)と名称が変わっている
^ ジロンド派の政治家。後に同派の没落を決定づける失言をしたことで知られる
^ イスナールは最初これを「執行委員会(行政委員会)」と名付けようとした。新委員会は独裁的強権を持つ行政府のようなものとして想起された
^ 同姓の議員と区別して通称ブレアール=デュプレシーとも言う。
^ 山岳派の政治家。非常に似た名前の兄がいるが、一般にこちらの有名な弟をロベール・ランデ、兄をトマ(トマス)・ランデと言う
^ ダントン派の政治家。ロマン派の画家で有名なウジェーヌ・ドラクロワの父親。「ド」は定冠詞のため、ラクロワとも表記する
^ マチエはほぼ断定的にダントンはデュムーリエの陰謀に荷担していたとしている。[12]
^ 前身は特別委員会。山岳派の独壇場だった保安委員会を抑えるために創られたが、結果的にはエベール派などに扇動されたサン・キュロット民兵の蜂起を誘発した
^ a b 名門貴族出身で、フンヤン→ジロンド→山岳派と党派を渡り歩いた政治家。享楽的な人物として知られる。外交で秘密任務に携わっていたことから裏切りの疑惑が持ち上がり、別の亡命貴族を匿った容疑で逮捕された。公安委員を辞任したが、公会では受理されなかった。平等主義者で、厳密にはダントン派ではないもっと左の政治信条であったが、ダントン派と一緒に処刑された
^ ただしロベール・ランデは一旦は辞めるが、6月22日にマテューに代わって復帰した
^ 6月27日、フランソワ=レネ=オーギュスタン・マラルメも公安委員に指名されたが、実際に委員会には加わらなかった。同様に7月4日にトマ・ランデ(ロベール・ランデの兄)、ジャン・ミケル・デュ・ロイ、ジャン=マリー・アドリエン・フランカステルの3名も指名されたが、委員会に参加することはなかった
^ 山岳派右派で、いくつかの点では対立したがもともとはジロンド派と考え方が近いグループだった。右派として、買い占め人の処刑や一般最高価格法(フランス語版)などアンラジェやエベール派が主張した極左政策には反対した。また対外的にも和平交渉を支持し、恐怖政治の終了を志向していた
^ 10月3日の保安委員アマール (fr:Jean-Pierre-Andre Amar) の報告をもって処分が決定し、ジロンド派とされた41名は革命裁判所に送られ、その中核の21名は死刑となり1名は執行前に自殺した。ただし残りは無罪になった。すでに逃亡していたジロンド派の19名は法の保護の外におかれ、元内相のロランなどは妻の死を知って自殺したが、残りもほとんどが悲惨な最期を遂げた。6月2日の非合法な民衆の武装蜂起への抗議書に署名した76名は逮捕状が出されたがロベスピエールによって免除されて、ギロチンから救われた。[14]

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