公卿
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

また、明治2年6月17日1869年7月25日)に明治新政府は版籍奉還を行い、太政官達「公卿諸侯の称を廃し改て華族と称す」が公布され、公卿諸侯は華族と名称を変更することとなった[3]。この際に公卿142家は旧藩主の諸侯285家とともに華族となり、華族制度が創設された。華族に列せられた公卿は「公家華族」と通称され、近代日本における上流社会を形成していった。なお、太政官には太政大臣、左大臣、右大臣、参議が存在したが、これも公卿と呼ばれることはなく、公卿補任への掲載も行われなかった。

明治18年(1885年12月22日には内閣制度がスタートし、太政大臣、左右大臣、参議が廃止された。その後も位階制度は残り、内大臣も形を変えて存在したが、公卿の名が用いられることは無くなった。
脚注[脚注の使い方]^ 『華族誕生』浅見雅男、リブロポート、1994年。p24
^ 長又高夫「院政期明法学説の形成」『中世法書と明法道の研究』(汲古書院、2020年) P340.(原論文:2003年)
^ 居相正広「華族要覧 第1輯」(1924年)。国立国会図書館デジタルライブラリー。

関連項目

関連項目が多すぎます。関連の深い項目だけに絞ってください。必要ならば一覧記事もしくはナビゲーションテンプレートとして独立させることも検討してください。(2019年5月)
body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper{margin-top:0.3em}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ul,body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper>ol{margin-top:0}body:not(.skin-minerva) .mw-parser-output .columns-list__wrapper--small-font{font-size:90%}

官位

位階

官職

太政官

太政大臣

左大臣

右大臣

内大臣

准大臣

大納言

中納言

参議

非参議

堂上家

殿上人

地下人

家格





公方



士大夫

儀礼

律令制

貴族

御三卿


記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:19 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef