公会議
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古代から中世まで、この種の宗教会議はしばしば東ローマ帝国皇帝や時の権力者が召集し、また議長を務めることすらあり、世俗権力の強力な影響下で議論されることが多かった。そのため、ローマ使徒座を首位とする西方教会(カトリック教会)では、ローマ教皇(教皇)自ら出席せずにその特使(枢機卿)を派遣して、後に教皇が決議を承認するという形式が慣例となっていた。しかし、現在のカトリック教会の定める教会法では、教皇による召集が義務となっている。
各教派における解釈

公会議に関しては、キリスト教の各教派によってその重要性の解釈は異なっている。

カトリック教会では、325年の第1ニカイア公会議から1962-65年の第2バチカン公会議までの21回の公会議を認めている。


プロテスタント諸教会は(宗教改革期以降の公会議はもちろんのこと)すべての公会議を認めているわけではないが、初期の数回の公会議の重要性は認識されている。

当時優勢であった異端アリウス主義を大論争のうえ排斥し、アタナシオスらによって三位一体論を公式に採択した第1ニカイア公会議(325年)および第1コンスタンティノポリス公会議(381年)、さらに三位一体論が正統的な神学であることの再確認と、キリストの神人両性論が公式に採択されたエフェソス公会議(431年)およびカルケドン公会議(451年)は重要な歴史的な公会議であるとされている。



正教会は基本的には787年の第2ニカイア公会議(第7回公会議)までの7回の公会議のみを認めており、それ以降は西方教会の地方教会会議であると認識している(決議の有効性は認めず)。ただし、ローマ・カトリックでいう第17回公会議(特にフィレンツェにおける会期)には議論がある。正教会の代表者も参加し、東西分裂以後、一致を計った普遍的な公会議たるべく開催され、一時は合意に達したものの、正教会が承認できる内容ではなかったため最終的に合意は成立せず、会議後間もなく東ローマ帝国が滅亡してしまったために交渉自体も消滅。このため正教会側では第8全地公会(第8回目の普遍的公会議)とは認識されていない。

なお、正教会では、自律した諸地方教会単位までの教会会議を便宜的に「地方公会」と呼ぶことがあり、これは使徒的な諸自律教会全体を包括する公会議を「全地公会」と区別される。現在でもローマ、コンスタンチノープル、ロシアなどの諸教会単位で行われる教会会議は地方公会であり、第1ニケアから第4コンスタンチノープル会議まで7回の会議のみが全地公会としての要件を満たした普遍的公会議(全地公会)であるとしている。



近年出現した分派セクト)またはキリスト教系新興宗教の大多数が、公会議の全ての権威や歴史的な信仰宣言をいっさい認めず、ことごとく“否定”する傾向がある。

彼らの主張を分析してみると、ほぼ例外なく、伝統的なキリスト教の主流派を「歴史の中で教会に悪魔が入りこんで堕落した」「中世の暗黒時代に背教と腐敗が入り込んだ」「人間の罪の結果または異教の介入によって教会が堕落し本来の姿から離れてしまった」「聖書に預言された堕落した背教の徴」「歴史的な教会改革運動は全て失敗であった」などと主張し、公会議の歴史的な決定事項や信仰告白を完全に否定する傾向がある。それらの大多数が、教祖的人物の受けたとされる啓示や、ほんの一握りの組織上層部の聖書理解や自分勝手な神学が強調されたり、ある種のカリスマ的な神秘体験が強調されたり、自らの宗教組織のみが神によって選ばれた地上の可視的な唯一の真理(救いの道)であるなどと主張するなど、独特の特徴がある。


公会議一覧
備考

843年に、イコノクラスムを決着したコンスタンティノープル公会議は、教会内の対立により表から除かれている。詳細は「ピピンの寄進」および「イコノクラスム」を参照
一覧

回年公会議の名称概要有効性を認めている教会
西方教会東方教会
カトリックその他正教会非カルケドン派アッシリア東方教会
全地公会議(第1回?第7回)[2]
1325年第1ニカイア公会議アレイオス派排斥およびニカイア信条採択、復活祭復活大祭)の日付を確定●●●●●
2381年第1コンスタンティノポリス公会議三位一体論の定義、ニカイア・コンスタンティノポリス信条採択●●●●●
3431年エフェソス公会議ニカイア信条の正統性を確認。


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