八神純子
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1975年2月10日には2枚目のシングル「幸せの時」もリリースされた。

1975年5月に開催された『第9回ヤマハポピュラーソングコンテスト』にも出場し「幸せの国へ」で優秀曲賞に入賞[12][10]。また2年連続で「幸せの国へ (Hand in Hand) 」で『第6回世界歌謡祭』に出場した[13][10]。八神はこの世界歌謡祭に出場していた外国人アーティストに誘われ、海外での音楽祭やコンテストにも挑戦する決意を固めたと語っている[14]。高校3年生であった1976年には、『第17回チリ音楽祭[注釈 3]に参加[10]オーケストラをバックに和服姿で「もう忘れましょう (I Shall Forget) 」を歌って6位に入賞した[15]

高校卒業後は音楽の道に進み、プロデビュー前の1976年からデビュー後の1980年まで、文化放送霊友会提供の帯番組『デデと純子のミュージックトリップ』にデデこと川村尚と出演していた。

デビュー当時に制作された「小さなさくら貝」[16]は、スローテンポでフォークソング調の曲だったが、当時は発表されなかった。ポプコン30周年を記念としてキングレコードからリリースされたベストアルバム「ポプコン・スーパー・セレクション」シリーズの1枚として、2003年3月26日に発売された『ポプコン・スーパー・セレクション 八神純子 ベスト』(規格品番:KICS-2401)に未発表曲として初収録されている[17][18][19]
本格デビュー

1978年1月5日、20歳の誕生日にディスコメイトレコードより、シングル『思い出は美しすぎて』でプロ歌手として本格デビューを果たす[10]。この曲はオリコン最高位25位、売上12万枚のヒットとなった[20]。同年6月25日、デビュー・アルバム『思い出は美しすぎて』を発売、オリコン最高位5位のヒットとなる[10]

また、デビュー当初からネム音楽院出身の選りすぐりメンバーで構成された専属バックバンドメルティングポット」を率いていたのは当時としては画期的なことだった。

続いて同年5月5日、シングル『さよならの言葉』をリリース。この曲は1977年に開催された『第13回ヤマハポピュラーソングコンテスト』でグランプリを受賞した小野香代子の楽曲のカバーであった[21][注釈 4]。しかし、シングルが自作曲でなくカバーとなったことは八神にとっても不本意であった。セールス結果もそうした状況を反映して前作のヒットとはうらはらに、オリコン最高位67位、売上1.9万枚にとどまった。

八神が「さよならの言葉」を歌うに至った事情についての詳細は「さよならの言葉#八神純子」を参照。シングル『さよならの言葉』のカップリング曲「恋人同志」は「ロッテ 歌のアルバム」のテーマソングに起用された。髪に薔薇を刺して生で歌っていた。「恋人同志」を歌う八神純子
「みずいろの雨」が大ヒット

シングル『さよならの言葉』の売上低迷により、八神は歌手引退も考える状況に追い込まれた[22]。次の楽曲作りに迷っていたとき、東京原宿歩道橋で不意に曲想を得て「みずいろの雨」を作曲することになる(作詞は三浦徳子が手掛けた)[22]。八神は「『みずいろの雨』は岩崎宏美の声を想定して書いた曲で、前のシングルが思うように売れなかったので、歌手を引退して作家への転身を考えていた」が、しかし「自分で歌ってみたところ、とても評判が良くレコーディングとなった」と語っている[22]

同年9月5日に「みずいろの雨」をシングルとしてリリースしたところ、有線放送やラジオ番組を中心にリクエスト回数が増え始めてオリコンチャートの順位も上昇し、TBS系で1978年1月19日より放映開始された音楽番組『ザ・ベストテン』の注目曲を紹介するコーナー「今週のスポットライト」へ同年10月19日に出演したことで全国区に知名度を上げた[22]。八神は「一夜にして大ブレイクした」と語っている[14][22]

それに伴いテレビ音楽番組への出演も増え、『ザ・ベストテン』の司会者だった久米宏からは、八神が毎回登場する度に体型や容姿、衣装の話などでよくからかわれていたが[注釈 5]、八神は「私がいつも緊張していたのをほぐしてくださったのだと思います」と好意的に受け止めている[22]


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