前提として日本相撲協会は、八百長の概念を認めておらず、2011年の大相撲八百長問題においても「故意による無気力相撲」という表現を用いるにとどまっている。故意による無気力相撲の定義は「怪我や病気をしたままで場所に出ること」としている(週刊現代との訴訟における、当時の北の湖理事長の発言による)。
主な疑惑
1958年1月場所14日目:鏡里 - 千代の山
鏡里はこの場所「10番勝てなければ引退」と発言したが、13日目に6敗となり、10勝を挙げることは不可能となった。鏡里は翌日の千代の山戦に勝ち、勝ち越しを決め、千秋楽も勝って9勝6敗とした(結局引退した。)。しかし、鏡里は千代の山にもろ差しになられながらも寄り切りで勝ったが、千代の山が有利な体勢なのに負けたのは「八百長ではないか」という疑惑が生じた。
1963年9月場所千秋楽:大鵬 - 柏戸
ともに全勝の横綱同士の対戦。前場所まで4場所連続休場だった柏戸が勝って優勝を決めたが、場所後石原慎太郎が9月26日付の日刊スポーツ紙上に手記を寄せこの一番を八百長として糾弾。協会の告訴にまで発展したがのちに和解。
1970年1月場所千秋楽:北の富士-玉乃島
ともに優勝と横綱昇進をかけた大関同士の対戦。前場所優勝しこの場所も1敗で優勝争いの先頭を行く北の富士はすでに横綱昇進決定的と報じられたが、2敗で追う玉乃島は本割で勝たないと「話にならない」[18]。本割では玉乃島が一方的な相撲で北の富士を吊り出したが、優勝決定戦では北の富士が立ち合いで右上手を素早くとると一気に寄り立て、こらえた玉乃島を外掛けで下した[19]。場所後の横綱審議委員会で2人の横綱推薦が決まったが、委員長の舟橋聖一がこの取組を念頭に「疑惑を招くような相撲を絶滅して欲しい」と協会に強く申し入れた[20]。
1971年7月場所11日目:大麒麟-琴櫻
全勝の玉の海を1敗で追う好調の大麒麟に対し、この場所角番の琴櫻はここまで5勝5敗。大関同士の対戦はあっけない相撲で琴櫻が勝ったが、取組後に「八百長ではないか」とファンから非難が集中し、翌日記者クラブからの質問に協会理事長の武蔵川(元幕内・出羽ノ花)は「ファンの疑惑を招いたことは申訳ない」と遺憾の意を表明し、武蔵川の意向を受けた審判部は緊急審判部会を開き、両力士に対し「今後このようなことがないよう」厳重に警告した[21]。
1972年の相撲競技監察委員会発足後
1971年12月4日に協会は臨時理事会を開き、「無気力相撲」を防止するための対策のひとつとして「故意による無気力相撲懲罰規定」を制定し、1972年1月場所より施行することとした。規定に基づき設置された相撲競技監察委員会は、無気力相撲がなかったか確認するとされているが、実際に無気力相撲を認定した例は極めて少ない。「相撲競技監察委員会#実際に処分された者」も参照
1980年-1999年、週刊ポストによる八百長報道(角界浄化キャンペーン)
1980年、元十両四季の花範雄によって現役時代に金銭の絡む八百長の仲介者として働かされたことが暴露された。この証言に対して賛同するように、元前頭禊鳳英二、元十両八竜信定、元幕下谷ノ海太一