八甲田雪中行軍遭難事件
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八甲田雪中行軍遭難事件
場所 日本 青森県八甲田山
日付1902年1月24日
原因天候不順、認識不足
死亡者199人
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遭難し、直立したまま仮死状態で発見された後藤房之助伍長の像事件当時の陸軍大臣寺内正毅の揮毫による後藤伍長像の碑文

八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年明治35年)1月日本陸軍第8師団歩兵第5連隊青森市街から八甲田山田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大の山岳遭難事故である[1]
雪中行軍

日本陸軍1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での苦戦を強いられた経験を踏まえ、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロシア戦に向けた準備をしていた。日本陸軍にとって冬季訓練は喫緊の課題であった。対ロシア戦は10年後の1904年(明治37年)に日露戦争として現実のものとなる。

雪中行軍は青森歩兵第5連隊210名が1902年1月23日から、弘前歩兵第31連隊37名と新聞記者1名が1月20日から2月1日までそれぞれ異なる経路を行軍した。
行軍の目的

青森
歩兵第5連隊は、冬のロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が不通となった場合、物資の運搬を人力ソリで代替可能か調査することが主な目的であった。対象となった経路は「青森 - 田代 - 三本木 - 八戸」間で、最大の難所である青森 - 田代温泉間の雪中行軍演習は片道約20km、1月23日より1泊2日の予定で計画された[2]。行軍経路は田代街道、現在の青森県道40号青森田代十和田線である。

弘前歩兵第31連隊の計画は「雪中行軍に関する服装、行軍方法等」の全般に亘る研究の最終段階に当たるもので、3年がかりで実施してきた演習の総決算であった。経路は「弘前 - 十和田湖 - 三本木 - 田代 - 青森 - 浪岡 - 弘前」間で総延長224km。日程は1月20日より11泊12日の予定であった[3]

なお、両連隊は、日程を含め、お互いの雪中行軍予定を知らずに計画を立てた[注釈 1]。ただし、弘前連隊の行軍予定については東奥日報が1月17日発行の紙面上で報道していたことから、青森側には行軍予定の重複に気付いた者がいた可能性がある[4]
行軍の準備
弘前第31連隊

弘前第31連隊が行軍命令を通知したのは1901年(明治34年)12月20日頃で、出発の1ヵ月前だった[3]。指揮は陸軍歩兵大尉福島泰蔵。隊は志願者37名の少数精鋭に東奥日報から従軍記者1名を加えた計38名で編成された。出発に先立ち、同隊は沿線の村落や町役場に書簡で食糧・寝具・案内人の調達を依頼した[3]。また、木こりマタギ、農家から情報収集し、冬山では汗をかかないように配慮することと、足の凍傷予防として靴下を3枚重ね履きした上から唐辛子をまぶし、さらに油紙を巻くなどの防寒の知識を得て実践していた[3]


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