八甲田山_(映画)
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配分の推定はシナノ企画25%、東宝映画25%、橋本プロ50%の割合い[15]。監督の森谷司郎、プロデューサーの野村芳太郎にも1億円の配当があったとされ[15][注釈 62]木村大作にも1,000万円の他[18]、実際に製作にタッチした人たちへ多額の利益配当が出たのも、日本映画で初のケースといわれた[15][18]。映画を守るという大義名分のために、低賃金で犠牲的労働を強いられたスタッフが報われた形となった[18]。これは映画公開終了直後の話なので、以降の二次使用についての配分は不明。日本のメジャー映画会社の外部プロとの提携は、1976年に角川春樹事務所が東宝と組んだ『犬神家の一族』以降活発になったものだが[15][24][25]、『犬神家の一族』の場合は映画外部企業の製作だが、『八甲田山』の製作の中心は橋本プロのため、外部プロといっても映画業界インサイダーであった[6]。しかも共同製作の株式会社東宝映画は別法人ではあるものの東宝の直轄制作部門である。折から東宝が志向していた大作一本立て、長期興行の成功例が出たことで[6]東映松竹も積極的な外部プロとの提携を打ち出して[15][17]、1978年以降、映画会社の自社製作の映画が減っていった[15][24]。日本映画の外部プロとの提携、大作化で東宝、東映、松竹がそれぞれ持っていた会社のカラーは無くなっていった[24]。儲け損ねた東映社長の岡田茂は、大ヒットの直後、「映画としてはそれほどよく出来てるとは思わないが、ただ熱意がすごい。時間をかけてじわりじわりと盛り上げ、製作の熱意が宣伝、営業に乗り移って、みんな一丸となってやった。それが成功の原因でしょう。その点、非常に勉強になった」と話した[26]。暗い内容であっても、やり方によっては大ヒットさせることが出来ると映画会社は気づき、結果として「オールスター超大作の戦争映画」製作の気運が映画界で高まっていった[27]
後日譚

青森市幸畑字阿部野にある「
八甲田山雪中行軍遭難資料館」では「ミニシアター」コーナーにて当映画を解説付きで上映している。

本作公開からしばらくの間、雪国に住む子どもたちの間で「八甲田山遊び」と称した、「裸で凍死する兵卒」をマネて雪の中に突っ込む遊びが流行ったという[2]

進藤特務曹長らが迷い込んだ駒込川本流の峡谷には「駒込ダム」の建設が現在進められており、当映画に登場した駒込川峡谷・田代元湯・鳴沢はじめ支流にある沢の一部は将来ダムの底へ沈む。

ラストシーンには、生存者の一人である青森歩兵第5連隊の村山伍長が八甲田ロープウェーとともに登場するが、モデルとなった村松伍長は八甲田ロープウェーが開業する前に死去している。

先述の通り本作がサラリーマンに好評だったことから本作公開後、監督の森谷は経団連関係者から続々と、「集団行動における統率や失敗」などをテーマにした講演を依頼されるようになった[2]

高倉は「ぼくがやった徳島大尉も、実際は軍の上層部が『雪の八甲田で会いましょう』なんて適当なことを言って、デスクの上でほとんど冗談のように思いついた雪中行軍競争みたいなものに駆り出される。徳島隊は、たまたま命からがら全員が無事で生き延びたけれど、ああいう現場を見てしまった。助けたりできたのに、助けないでというあの悲惨な現場を。そんな兵卒たちが長く生きているとぐあいが悪いということで、最後は全員、満州、奉天の現場に送られる。本当はそんなことを考えた上のやつが悪いのに、そいつらのぐあいが悪いから、一番危ない戦場に出されてみな戦死させられています」と述べている[12]

デジタル修復

フィルムの経年劣化が進んだことから、2018年に東京現像所が4K解像度によるデジタル修復を行った。木村大作が監修を務め、単なる高解像度マスターの取得や傷の消去にとどまらず光量の補足や空撮シーンの揺れを抑制するなど、積極的な改善を施している。存命の関係者の証言も交え修復作業を追ったオリジナル番組とともに日本映画専門チャンネル、同局+時代劇専門チャンネルの4K局で放送。また、2019年2月17日にBSフジ4Kでも放送された。

2019年4月17日にはBlu-ray版が発売された[28]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ソリによる荷物輸送はもともと平坦な道向きとされ、坂道(上りと下りの勾配)には弱い。よって、行軍隊の荷物をソリに載せて自分たちで運ぶ方法は適切でなかったといえる。大隊長の山田少佐による行軍計画変更「(予備演習の結果が良好だったことを受けての)大隊本部が随行する総勢210名の中隊編成へ大量増員」は・特に行李輸送隊へ多大な負担を強いることとなり、ソリを牽引・後押しした隊員は汗だくになって体力を消耗し「大量遭難」という悲劇へつながっていった(参加人員が大きく膨れ上がり荷物が倍増したことでソリは重くなり、田代までの道中は幸畑以降で積雪が増えて上り勾配が延々と続き、これが「ソリが前に進まず・本隊より後方へ2km以上も大きく引き離されたため行軍全体に大幅な遅れが生じ、日没前に田代へ着けなくなって途中で露営する」一因となった。神田大尉による「ソリ後押し援護要員派遣」も焼け石に水で、援護要員の負担も並大抵のものではなかった)。
^ 例として、「雪壕を掘っての露営」を岩木山の雪中行軍本番で実践していたため、八甲田山雪中行軍本番でも組み入れていた。
^ 徳島大尉は「五連隊は青森から田茂木野?田代?増沢の一本道経由で三本木へ向かう」と(五連隊の行軍計画書提出前から)既に予想していた。門間少佐と児島大佐へ行軍計画書を提出した時は「弘前発の三十一連隊がこのような長距離行軍(五連隊と八甲田ですれ違うべく十和田湖経由で大迂回するしかない経路)となったのは、神田隊と八甲田山中ですれ違う約束をさせた連隊長殿の責任であり、この計画を無謀と思うなら五連隊との約束を考え直してほしい。自分は旅団司令部で冬の八甲田を安請け合いしたことを後悔している。調査をすればするほど恐ろしく、日本海と太平洋の風が直接ぶつかる八甲田は、冬の山岳としてはこれ以上ない最悪の地帯。今後50年・100年経っても冬の八甲田は頑として人を阻み、通行を許さないだろう。よって「八甲田雪中行軍はやめるべき」との意見具申を考えたが、五連隊は神田大尉を指揮官として冬の八甲田へ挑むので、自分も八甲田へ行かねばならない」と述べている。
^ 勉強会冒頭では「五連隊はあなた(神田大尉)のような熱心な方がいるが、こちら(三十一連隊)の準備はまだです」と前置きしたうえで、「もし自分が八甲田(雪中行軍)をやるとなれば、編成は小隊編成となるだろう」と述べ、「当初から小隊編成で行軍する方針を決めている」旨を強調した。神田大尉は冒頭「自隊(五連隊)は小隊・中隊どちらの編成にするか現時点ではっきり決まっていない」と述べ、徳島大尉の話を聞いてから「我が五連隊も小隊編成にする」と一度は決めたものの、その考えは上官・山田少佐に覆されて「中隊編成」へと膨らみ、悲劇のきっかけとなっていった。
^ 弘前の自宅へ神田大尉を招いての勉強会では、「師団の参謀長・旅団長は『雪中行軍はあくまで各連隊の責任で実施すべし』と言っている。上から命令されれば装備・予算など色々ねじ込まれるから」と述べると共に、初の山岳雪中行軍となる神田大尉へ「本番前に予備演習をする」よう勧めた。しかし五連隊は神田大尉が(徳島大尉からの忠告に基づいて)実践した予備演習とは異なり、本番では(三十一連隊に勝ちたいとする)山田少佐の意向により・行軍参加人数とソリ台数が予想より大幅に膨れ上がることとなり(予備演習の成果は雪中行軍本番に活かされず)、これが「大量遭難」という悲劇につながっていった。
^ 雪中行軍経験に乏しい五連隊(神田隊)は徳島大尉のような知識を持ち合わせていなかったため、ほとんどの隊員が水筒に水を隙間なく入れ満水状態にして出発。このため小峠へ着くまでに飲料水は(携帯食糧共々)凍結してしまい、これが「脱水症状による疲労」を引き起こして悲劇(大量遭難)へつながった。
^ 徳島隊の結団式では、各隊員が着用する防寒靴など各種装備の見本が展示された。
^ 具体的には、増沢から田代・馬立場・賽の河原にかけての八甲田東南山麓と推測するとし、実際の文面には「我が三十一連隊が八甲田で危険かつ困難な状態に陥った場合、どうか武士の情けでお助けをよろしくお願いします」と書いた。
^ ただし元山峠から銀山への下り坂で転倒し負傷した松尾伍長のみ、(この先の三本木より弘前へ中途帰営させる前に)現地の民家へ宿営させている。
^ 増沢から田代への道中では大規模な雪崩に巻き込まれそうになったが、それでも徳島隊一行は諦めず八甲田へ向け前進した。
^ 徳島隊は「雪濠を掘る深さは身長の倍となる4mにすれば寒さと暴風雪を十分しのげる」旨の情報を本番前に地元住民より得ていた。一方で神田隊は往路・平沢での露営時に(徳島隊の半分となる)2mの深さまでしか雪濠を掘っておらず、暴風雪や寒さを十分しのげる状態とはいえなかった。
^ 徳島大尉が「装備を極力軽くした」理由は「自隊の安全を最優先し、万一の悪天候遭遇時でも行軍に参加する隊員全員の命を守る」ためだった。


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