八甲田山_(映画)
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また国鉄キャンペーンディスカバー・ジャパン一枚の切符からの宣伝ポスターにも『八甲田山』が利用され[20]、1977年6月6日から封切日まで全国的規模でポスターがに貼られ、1977年6月16日から1週間は全線社内に中吊り広告を掲出した[16]。「天は我々を?」以外にも新聞や雑誌に別々のキャッチコピーを用意、「その日 八甲田はこの世の終わりのように咆哮した! 白い地獄と呼ばれた?骨まで凍る地吹雪の中に死の行徨が始まる」「?白い地獄が待っていた!」「八甲田の雪は白い悪魔か!」など[19]、大々的に広告展開がなされた[19]。東宝の宣伝マンは『八甲田山』で「いろいろやりたいことができた」と話したといい[17]、「宣伝マン冥利につきるのでは」といわれた[17]。但し、民音労音日音協、シナノ企画が前売り券を150万枚売ったといわれる[6]

宣伝担当の堀内實三は、青森県知事から承諾を得て本作品を県民映画とし、地方は遅れ興行が常識であった時代に青森県内の上映全館で一斉封切りを実現した[22]
作品の評価
興行成績

内容が暗いので映画向きではないと極言する映画関係者もいたが[20]、ヒットは間違いなしという大方の前評判ではあった[17][20]。しかしこれほどの超ヒットになるという予想はされていなかった[20]。最終的に配収23億円[15]、配収25億円[6]の大ヒットで、『日本沈没』を上回る当時の日本映画歴代配収新記録を打ち立てた[6]

本作のヒットの大きな要因として、先述の15秒のテレビスポットCMを大々的に放送したことなどに加え、豪華俳優たちの共演による前評判の高さもあった[2]。ただし、マスメディアによっては「『八甲田山』は、雪が主役」と評されることもある[2]。また、「神田大尉(北大路)が山田少佐(三國)に振り回される展開が、サラリーマン(特に中間管理職)たちから共感を得た[注釈 61]」とも言われている[2]
後の作品への影響

配収から東宝の配給手数料として7億円を引いた16億円の25%、約4億円を引き、12億円の利益を出した[15]。シナノ企画が独自で行った宣伝費が1億5,000万円あるため、残り約10億円をシナノ企画、東宝映画、橋本プロの三社で配分[15]。配分の推定はシナノ企画25%、東宝映画25%、橋本プロ50%の割合い[15]。監督の森谷司郎、プロデューサーの野村芳太郎にも1億円の配当があったとされ[15][注釈 62]木村大作にも1,000万円の他[18]、実際に製作にタッチした人たちへ多額の利益配当が出たのも、日本映画で初のケースといわれた[15][18]。映画を守るという大義名分のために、低賃金で犠牲的労働を強いられたスタッフが報われた形となった[18]。これは映画公開終了直後の話なので、以降の二次使用についての配分は不明。日本のメジャー映画会社の外部プロとの提携は、1976年に角川春樹事務所が東宝と組んだ『犬神家の一族』以降活発になったものだが[15][24][25]、『犬神家の一族』の場合は映画外部企業の製作だが、『八甲田山』の製作の中心は橋本プロのため、外部プロといっても映画業界インサイダーであった[6]。しかも共同製作の株式会社東宝映画は別法人ではあるものの東宝の直轄制作部門である。折から東宝が志向していた大作一本立て、長期興行の成功例が出たことで[6]東映松竹も積極的な外部プロとの提携を打ち出して[15][17]、1978年以降、映画会社の自社製作の映画が減っていった[15][24]。日本映画の外部プロとの提携、大作化で東宝、東映、松竹がそれぞれ持っていた会社のカラーは無くなっていった[24]。儲け損ねた東映社長の岡田茂は、大ヒットの直後、「映画としてはそれほどよく出来てるとは思わないが、ただ熱意がすごい。時間をかけてじわりじわりと盛り上げ、製作の熱意が宣伝、営業に乗り移って、みんな一丸となってやった。それが成功の原因でしょう。その点、非常に勉強になった」と話した[26]。暗い内容であっても、やり方によっては大ヒットさせることが出来ると映画会社は気づき、結果として「オールスター超大作の戦争映画」製作の気運が映画界で高まっていった[27]
後日譚

青森市幸畑字阿部野にある「
八甲田山雪中行軍遭難資料館」では「ミニシアター」コーナーにて当映画を解説付きで上映している。

本作公開からしばらくの間、雪国に住む子どもたちの間で「八甲田山遊び」と称した、「裸で凍死する兵卒」をマネて雪の中に突っ込む遊びが流行ったという[2]

進藤特務曹長らが迷い込んだ駒込川本流の峡谷には「駒込ダム」の建設が現在進められており、当映画に登場した駒込川峡谷・田代元湯・鳴沢はじめ支流にある沢の一部は将来ダムの底へ沈む。

ラストシーンには、生存者の一人である青森歩兵第5連隊の村山伍長が八甲田ロープウェーとともに登場するが、モデルとなった村松伍長は八甲田ロープウェーが開業する前に死去している。

先述の通り本作がサラリーマンに好評だったことから本作公開後、監督の森谷は経団連関係者から続々と、「集団行動における統率や失敗」などをテーマにした講演を依頼されるようになった[2]

高倉は「ぼくがやった徳島大尉も、実際は軍の上層部が『雪の八甲田で会いましょう』なんて適当なことを言って、デスクの上でほとんど冗談のように思いついた雪中行軍競争みたいなものに駆り出される。徳島隊は、たまたま命からがら全員が無事で生き延びたけれど、ああいう現場を見てしまった。助けたりできたのに、助けないでというあの悲惨な現場を。そんな兵卒たちが長く生きているとぐあいが悪いということで、最後は全員、満州、奉天の現場に送られる。本当はそんなことを考えた上のやつが悪いのに、そいつらのぐあいが悪いから、一番危ない戦場に出されてみな戦死させられています」と述べている[12]

デジタル修復

フィルムの経年劣化が進んだことから、2018年に東京現像所が4K解像度によるデジタル修復を行った。木村大作が監修を務め、単なる高解像度マスターの取得や傷の消去にとどまらず光量の補足や空撮シーンの揺れを抑制するなど、積極的な改善を施している。存命の関係者の証言も交え修復作業を追ったオリジナル番組とともに日本映画専門チャンネル、同局+時代劇専門チャンネルの4K局で放送。


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