八甲田山_(映画)
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徳島隊結団式では隊を構成する27名全員が出席したうえで「水筒の水は(満水にせず)七分目まで入れ、絶えず動かしていれば凍らない[注釈 6]。人間の体もそれと同じだ。たとえ小休止といえども足の指は靴の中で動かし、手袋をはめた指も必ず動かす」と行軍時における注意事項を訓示するなど、凍傷の危険性や、飲料水や糧食の凍結防止について十二分に説明を行った[注釈 7]。本番1週間前には神田大尉に宛てた手紙を速達で出し、徳島隊の経路で困難な区間[注釈 8]を明らかにしたうえで、五連隊の神田隊に「最も遭難の危険性が高い区間」を暗示した。雪中行軍本番の1月20日、徳島隊は午前5時に弘前の屯営を出発し、軍歌の雪の進軍を斉唱するなどして隊の士気を高めた。隊員には「行軍中の勝手な行動の一切厳禁」「防寒着の装着などは自身(徳島大尉)の指示・命令が出てから行う」ことを徹底させた。凍傷・低体温症防止には足踏みと手指の摩擦や、足先保温のため藁の雪沓の使用・油紙で足を包み靴下に唐辛子をまぶす・厚手靴下を三重に履かせるなどの処置を行わせた。小国と切明(現在の平川市)で宿営・小休止をしたのち、白地山・元山峠経由で十和田湖畔の銀山(現在の秋田県鹿角郡小坂町)へ向かう際には暴風雪の兆しをいち早く察知し、耳当て着用・厚手手袋の二重着用・襟巻き(マフラー)を巻くことを隊員へ指示している。宇樽部(現在の十和田市)で宿営後、中里(現在の三戸郡新郷村)へ向けて犬吠峠を越える際には、隊員全員を荒縄で一列に結び、滑落と視界不良による落伍を防いだ。中里では案内人と別れたのちに、地元住民からの「家に泊まらないか」との誘いを断って集落近くの空き地に雪壕を掘り、一夜を明かす夜間耐雪訓練を実施している[注釈 9]三本木(現在の十和田市)到着時に予定通りであれば神田隊が三本木に到着しているはずだが、五連隊の本部にその報告が入っていないとの連絡を三十一連隊の門間少佐より(三本木の宿の主人を通じて)受け取るが、悪天候などで遅れることはあると考えて、自身は神田隊が消息を絶っているとは思っていなかった。次の宿営地である増沢でも神田隊の姿はなく、八甲田山への出発前に神田大尉を心配する。八甲田山の増沢(現在の十和田市)から田代(現在の青森市)へ至る経路では、現地で雇った案内人に従って行軍し[注釈 10]、田代温泉への道は猛吹雪で見つけられなかったものの、道中は雪壕による露営などで隊の損耗を抑えた[注釈 11]。田代出発直後に斎藤伍長が弟・長谷部善次郎一等卒の遺体を見つけ「弟の亡骸を背負って帰りたい」と懇願されると、「(亡き弟と一緒に帰りたい)気持ちはよく分かる。だがこの先・田茂木野まではまだまだ難関があるため、弟を背負った斎藤伍長が倒れればそれを助ける者もまた倒れ、我が三十一連隊は全滅する。弟の遺体は後日救助隊が収容に来るから、今は静かに眠らせておいてやれ」と慰留し「自隊の安全を最優先する[注釈 12]」旨を強調。のちに参加者全員が長谷部一等卒の遺体に黙祷を捧げた[注釈 13]。一行が猛吹雪の八甲田を踏破し田茂木野村(現在の青森市)へ着くと(案内料を支払って案内人と別れたのち五連隊の捜索隊現地指揮本部へ立ち寄り)、「自隊(三十一連隊)は負傷のため三本木より弘前へ途中帰営させた松尾伍長を除く全員が猛吹雪の八甲田を踏破。鳴沢から賽の河原にかけて神田大尉を含む五連隊の隊員の複数の遺体を発見[注釈 14]した」旨を五連隊捜索隊指揮官の木宮少佐へ報告。しかし、実際には神田大尉らの遺体は前日の時点で既に収容されており、田茂木野に設けられた「五連隊雪中行軍遭難犠牲者の遺体安置所」で(本来八甲田山中で会うはずだった)神田大尉の遺体と悲しみの対面をする形となった[注釈 15]。三十一連隊が八甲田雪中行軍を無事成功させた旨は「五連隊大量遭難」に霞み大きくは報じられなかったものの、その後の「寒地訓練確立と寒地対応装備の開発」へと活かされている。モデルは福島泰蔵大尉。
田辺(たなべ)中尉
演 - 浜田晃行軍本番中は徳島大尉の指示を復唱し、隊員に指示が行き届くようにした。中里の集落では案内人を最後尾に置くことを上申するが、徳島大尉に却下されている。
高畑(たかはた)少尉
演 - 加藤健一行軍本番前の「三十一連隊雪中行軍隊結団式」では、経路の事前調査と宿営地・案内人などの交渉を担当した佐藤一等卒と小山二等卒からの報告内容をメモする。行軍本番では小国から琵琶の平を経て切明への行軍中「後尾に付け」と徳島大尉に命ぜられ、隊列の最後尾に付く。
船山(ふなやま)見習士官
演 - 江幡連気象観測を担当する見習士官。銀山から宇樽部までの行軍中に実施した気象観測では「気温が6度も急降下し風も急に強まってきているので、これは本格的な大暴風雪の前兆ではないか」と徳島大尉に報告する。なお行軍中は「風向・風速を測るための吹き流し付き竹棒」と「積雪の深さを測る竹棒」をそれぞれ背嚢に固定すると共に、現在地の気温を測る温度計を携帯している(気温は「手元の温度計で測った温度」と「体感温度」の2種類を測定・報告)。また、足を捻挫した松尾伍長を背負う川瀬伍長の銃を持つように徳島大尉に命じられた。
長尾(ながお)見習士官
演 - 高山浩平隊員の疲労度調査を担当する見習士官。
倉持(くらもち)見習士官
演 - 安永憲司装備点検を担当する見習士官。宇樽部での宿営時は翌日に控えた犬吠峠越え行軍に備え、参加者全員が「濡れた軍服・下着・靴下・軍靴を干して囲炉裏の火で乾かすこと」と「かんじき・藁の雪沓・服装などの損傷の有無の点検」を自主的に励行したり、装備や服装に損傷があるときは新品を購入するなどした[注釈 16]
斉藤(さいとう)伍長
演 - 前田吟歩測担当。青森第五連隊の長谷部善次郎一等卒の兄。過去に徳島大尉の部下として、岩木山雪中行軍に参加した経験がある。弟・善次郎が幼い頃に宮城県栗原郡築館町(現在の栗原市)へ養子に出されたことから、雪の怖さを知らないこと、五連隊の雪中行軍参加者が地元の青森ではなく、積雪量の少ない岩手・宮城の出身者で構成されていることから、八甲田山で遭難する危険性が高いと考えて、行軍本番前に青森にいる叔母へ、弟に八甲田雪中行軍に参加しないように伝言している[注釈 17]。行軍本番では歩測調査により、小休止場所・宿営地までの歩数を記録した。中里から三本木への行軍中に、普段は切れることのない雑嚢の紐が切れ、このことで弟の死を確信した[注釈 18]。後に、八甲田山で弟の凍死体を発見し、直接会って雪の怖さを伝えられなかったことを後悔し、徳島大尉に弟を背負って帰りたいと懇願するも、隊の安全を優先する徳島大尉に後日救助隊が収容に来ると諭され、その場に遺体を残して行軍を続けた。
松尾(まつお)伍長
演 - 早田文次元山峠から銀山への行軍中、凍結していた下り坂で転倒し足を捻挫した。このため中里への宿営時は自分たちで掘った雪壕ではなく現地の民家へ泊まり、八甲田手前の三本木にて行軍隊より外され汽車(現在の青い森鉄道線と奥羽本線)で弘前へ帰営する。
川瀬(かわせ)伍長
演 - 吉村道夫銀山から宇樽部への行軍中に捻挫した松尾伍長の背嚢などを持つと共に、自力歩行困難となってきた松尾伍長を背負うよう徳島大尉から命じられた。
佐藤(さとう)一等卒
演 - 樋浦勉小山二等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉と経路事前調査を年末年始の休暇返上で担当。佐藤一等卒は『「銀山の民宿経営者が三十一連隊の宿営を二つ返事で引き受けてくれた」旨と「銀山から宇樽部までは18 km。現地の積雪は約2 mあり、風はその日次第で今は何とも言えない」との情報を地元住民より得た』旨を徳島大尉へ報告する。三十一連隊への入営前に銀山で働いていた経験を活かし、行軍本番では銀山から宇樽部までの案内人を務めた。銀山で小休止中は「夏場に訪れた十和田湖の秀麗な湖面」を思い出していた。
加賀(かが)二等卒
演 - 久保田欣也喇叭手。行軍では「気温が低く猛吹雪となっている八甲田山中でも喇叭の音色を遠くまで響かせられるか否かを試す」旨の宿題を徳島大尉より与えられた。宇樽部にて宿営中は喇叭を磨きながら「五連隊(神田隊)がもし今日1月23日に出発していたら猛吹雪に遭い、えらいことになっているのでは?」という会話を斉藤伍長、西海記者と交わした。この予感は的中しており、神田隊は田茂木野以降で猛吹雪に見舞われていた。一行が犬吠峠を越えて中里の集落に入ると、徳島大尉の指示により先頭に立ち、喇叭を吹奏する[注釈 19]
小山(こやま)二等卒
演 - 広瀬昌助佐藤一等卒と共に行軍実施前の宿営地交渉と経路の事前調査を担当。増沢出身という地の利を活かし、行軍本番では三本木から増沢までの案内人を務めた(増沢への宿営時は参加隊員で唯一「実家での宿泊」を許可された)。
徳島の従卒
演 - 渡会洋幸佐藤一等卒・小山二等卒と共に「行軍本番前の経路事前調査と宿営地・案内人・消耗品・食糧調達交渉」を担当した。
曹長
演 - 原敬司
見習士官
演 - 北村博之、塚田一彦、広尾博、佐藤健二郎
弘前歩兵第三十一連隊
児島(こじま)大佐
演 -
丹波哲郎連隊長。弘前にある第四旅団司令部で行われた「日露戦争に備えての雪中行軍作戦会議」の終了後に、五連隊長の津村中佐へ「八甲田山の雪中行軍で(三十一連隊と五連隊の)両隊をすれ違う形にしよう」と提案し、これが実施されることになった。神田隊(五連隊)が消息を絶ったことが判明すると、徳島隊(三十一連隊)に雪中行軍の中止を命じようとしたが、徳島大尉への伝達手段がなかったことで徳島隊は神田隊が遭難していることを知らないままに八甲田山へ突入している。モデルは児玉大佐。
門間(もんま)少佐
演 - 藤岡琢也第一大隊長。徳島大尉の上官にあたり、児島大佐と共に三十一連隊雪中行軍経路とその参加人数の説明を受けている。行軍の参加人数が27名(従軍記者、案内人を除く)と少数であることに疑問を持つが[注釈 20]、徳島大尉から「雪中行軍が研究に主眼を置いたもので、いざというとき、国民や遺される家族に申し訳が立つ」という説明を受けている。1月25日に徳島隊の宿営地である三本木に電話で「予定では神田隊が三本木に着いているはず」と宿の主人に伝言をしている。神田隊が八甲田山で消息を絶ったことが判明すると、児島大佐に徳島隊の八甲田突入の中止を上申。連隊長の中止命令を受けるが、徳島大尉への命令伝達手段がなく、手を拱(こまね)いてしまった。
弘前第八師団
友田(ともだ)少将
演 -
島田正吾第四旅団長。雪中行軍作戦会議において、弘前の徳島大尉と青森の神田大尉をそれぞれの指揮官に指名[注釈 21]。八甲田を雪中行軍可能な山岳として手頃な場所であるとして、行軍の成功を期待していた。神田隊が消息を絶ったことが判明した後、八甲田突入前であった徳島隊が突入中止になったか否か参謀長の中林大佐に尋ねるが、連絡手段がなく徳島隊が八甲田へ突入していると聞き、徳島隊の安否を気遣った。モデルは友安治延少将。
中林(なかばやし)大佐
演 - 大滝秀治第八師団参謀長。「日露戦争に備えての寒地教育訓練確立」を目的として、青森第五連隊と弘前第三十一連隊への「八甲田雪中行軍」を友田少将と共に提案した。ただし、雪中行軍自体は各連隊に計画策定から編成までを委ねる方針とした。雪中行軍自体は日清戦争により遼東半島で多数の兵士が凍傷にかかり、作戦行動に支障をきたしたことから、より極寒地で戦闘することになるであろうロシア軍対策として寒冷地訓練体制の充実が必要であったことから立案されている。そのため、雪中行軍ではありとあらゆる可能性と方法を研究せよと説明している。
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