八甲田山_(映画)
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本作は初め東映に持ち込まれたが、明治物は当たらないという映画界の傾向を無視できなかった岡田茂東映社長が「そんな蛇腹(明治時代の軍服)の話が受けるかい」と承認しなかったため、東宝で製作されることとなった[7]野村芳太郎の所属する松竹森谷司郎の所属する東宝に撮影済みのフィルムの一部を見せ、シナリオを渡し、東宝から「条件を聞きたい」とのオファーを受け、東宝での配給が決定した[6]
キャスティング

役柄は不明であるが山村聡も出演するはずだった(一部のポスターでは、山村の名前が入る物もある)。山田役は当初丹波哲郎にオファーされていたが、丹波が厳冬期の青森での長期ロケに難色を示したため、出演シーンの大半がスタジオ撮影である児島大佐役に変更になり、代わりに三國連太郎に山田役が回されたとされる[8]

高倉健と緒形拳、また高倉と小林桂樹が唯一共演した映画作品である。
出演料

徳島大尉を演じる高倉健は本作出演にあたり、日本で初めて歩合契約を結び[9]、基本出演料1,500万円の他、配収25億円の大ヒットで、後から3,000万円が高倉の懐に入った[9]
撮影

脚本の橋本忍は、当初群馬県温泉地で撮れないものかと考えていた。しかし野村芳太郎森谷司郎と八甲田の山々を歩いて見て、ここで撮るしかないと考えを変えた。野村芳太郎から「映画には空気が映る」と言われていたからという[10]。撮影の木村大作は思うような撮影の技術が発揮できず、不満が残った。映像は端正といえず、青森隊が露営する場面では白い雪を背景に兵士たちの顔が黒く潰れている(後のデジタルリマスター版では露出が補正され、兵士たちの顔も判別できるようになった[11])。雪の山道では大きな照明道具を持参することが出来ず、小さな手持ちライトだけで顔に当たったり外れたりしていたという。また内容も兵隊が雪の中で死んでいくだけでは、ヒットするとは思えなかったという[10]

高倉は「最初はひたすら雪の中の映画を、そんなものを誰が見るのって言われながら撮っていきましたけど、途中からおおきなうねりになりました」と述べている[12]

実際に体感温度零下20?30度にも及ぶ[2]真冬の八甲田山で二冬もロケを敢行し、日本映画史上類を見ない過酷なロケとして有名になった。助監督を担当した神山征二郎は、その過酷さから「この映画の全ての撮影が終わった時、“寿命が2年縮んだ”と思った」と回想している[2]。遭難現場は八甲田山北東斜面だが、ロケは八甲田山北西の寒水沢、酸ヶ湯温泉付近や岩城山の長平、奥入瀬などでも行われた。作中の激しい吹雪のシーンも実際のもので、時には役者たち各々にビニールのカバーを被らせ、外で4時間も吹雪待ちをした[2]。斉藤伍長役で出演した前田吟は「撮影当時はまだダウンコートもない時代だった。この映画で着用した軍服は見た目はカッコよかったが、生地が薄くてかなり寒かった。特に何もしないでただひたすら待つだけの待機時間が辛かった」と証言している[2]。また、ある時ロケに参加した兵役たちのためにスタッフがカレーを作ってバケツリレーで回したが、後ろにいた前田の所に来た頃にはカレーが凍っていたとも証言している[2]

兵卒には高倉健や北大路欣也などのスター見たさもあって[2]、現地で募集したエキストラも多数参加していたが、当地在住のエキストラにとっても寒さは過酷なもので、撮影開始から数日も経つとエキストラの数は当初の半分に減っていたという[13]。裸で凍死する兵卒を演じた原田君事の肌が紫色に映っているのはメイクではなく本当に凍傷になりかけたためという話も残っており[注釈 58][14]、主役級も含めて俳優たちの出演料も決して高額ではなかった[要出典]。主役の高倉健は3年に渡る撮影に集中するためマンションと所有するメルセデス・ベンツ・SLを売却した。

徳島隊が雪崩に巻き込まれるシーンは、現場スタッフが30発のダイナマイトを爆発させて雪崩を起こし、3台のカメラで撮影された[2]十和田湖畔の行軍シーンでは良い画角で撮るため、氷を張った湖に木村大作が飛び込んで撮影した[2]。この過酷な撮影は当時カメラマンだった木村大作にも大きな影響を与えたと言われている[10]。前田吟によると、本作の終盤で遺体となった神田大尉が棺の中で横たわるシーンは、北大路が血の気のない死体役を演じるため実際に約5時間も棺桶に入って準備をしたという[2]。また、高倉健もこの撮影で足が軽度の凍傷になってしまったという[要出典]。

登山家の野口健は、「雪山登山を知る者からするとこの映画には“あるある”の場面が満載[注釈 59]です。また遭難の典型例[注釈 60]が勢揃いしています」と評している[2]
撮影記録

1974年2月からロケハンを開始[6]。カメラテストを重ね、1975年6月18日クランクイン[6]。1977年2月クランクアップ[6]。映画の完成は1977年5月[6]。ロケ撮影は、高倉健率いる弘前三十一連隊からスタートし、その後北大路率いる青森五連隊の撮影を行った[2]。撮影完了後、最初に編集した段階では4時間超えの作品だったが、長過ぎるため後日さらに編集で削って約3時間にしたものが公開された[2]
製作費

シナノ企画、東宝映画、橋本プロの三社トップ・オフで宣伝費1億5,000万円、制作費3億5,000万円、配給経費(6週間分)1億4,000万円、プリント費約200本分で5,400万円、これらを合計した直・間接費が総額6億9,400万円で約7億円[6][15]
宣伝

ラッシュを観た東宝は、作品内容が良いと判断し[16]、日本映画では当時史上最高の宣伝費3億5,000万円[16]、3億8,000万円[17]を注ぎ込んだ[16][17]。責任の所在を明確にするため、東宝、東宝映画、シナノ企画、橋本プロの他、音楽・ワーナー・パイオニア、原作・新潮社など、関係各社で「映画『八甲田山』 企業委員会」が組織され[16]、製作期間も3年と長かったことから[18][19][20]、宣伝も時間をかけて知恵を絞り、大々的に立体宣伝を展開した[16][19]


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