八甲田山_(映画)
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出発前夜は妻・はつ子に「携帯懐炉[注釈 28]を余分に5・6日分用意する」よう要請。従卒の長谷部一等卒も(外出許可を得て叔母の家へ行ったものの兄・斎藤伍長とは会えなかったため、兄からの『雪中行軍に参加すべきでない』伝言を叔母より受け取ったのみで、その後やむを得ず足を運んだ)自身の家(神田大尉宅)で風呂を沸かす手伝いをしつつ・出発前夜まで行軍本番前準備をし、自身には「小峠(までの予備演習)はまるで雪の中の遠足だったから、雪中行軍なんて(本番も)大したことない。本番は八甲田で三十一連隊とすれ違う旨の噂を聞いたので、自分が行軍に出れば久々に兄(斎藤伍長)に会える」と述べて行軍参加に前向きな姿勢を示し、(「もし冬の八甲田が恐いと思うなら行軍に参加しなくても良い」と自身が言っても「兄は心配性なだけ。従卒の自分が行軍に出なければ中隊長殿に失礼になる」として)「自らの意思で行軍に参加する」旨を強調した。雪中行軍本番当日(1月23日)、神田隊は午前6時55分に青森市内の屯営を出発したが、部下の不安は案の定的中。計画段階から大隊長の山田少佐と行軍隊編成規模・案内人雇用&大隊本部随行の是非・指揮権などを巡って対立した挙句、途中の田茂木野以降は(津村連隊長への行軍計画書提出時に「中隊指揮は一切神田大尉へ任せる」と述べ、本来は随行のみで指揮権を持たないはずの)山田少佐に全体の指揮権を奪われ、意見具申もほとんど却下。山田少佐の方針により「道案内人なしで(手元の地図と方位磁石を頼りに)猛吹雪の八甲田へ突入する」[注釈 29]不完全燃焼状態での行軍となった。また(麓の田茂木野までとは天候が180度一変し猛吹雪となった)大峠では、永野三等軍医に「八甲田付近での天候悪化が予想されているため、行軍を中止し帰営すべき」と進言されるも(行軍続行を強力主張する)大隊本部の下士官(進藤特務曹長・今西特務曹長・田村見習士官・井上見習士官)に「天候が変わりやすい山の上は突然の吹雪が当たり前(日常茶飯事)。兵卒・下士卒と我々大隊本部員は防寒装備を十分整え保温もきちんとできているから、ここで行軍中止では雪中行軍の計画・準備が無駄になる。行軍がこれ以上続行不可能とは思えず、たとえ作戦遂行が不可能な状況に陥っても・それを可能にするのが我々の任務だ」と反対され、(自身が何も言えない不完全燃焼のまま)山田少佐に「悪天候でも予定通り田代に行く」と勝手に出発命令された。ソリ隊は「(参加人数が大きく膨れ上がり)予備演習時とは比べ物にならない大量の重い荷物を引かされた」ため(ソリをなかなか前へ進められず・摩擦抵抗が増して大汗をかき)体力を消耗。屯営から平坦な道だった幸畑を過ぎた時点で既に本隊より遅れ始め、田茂木野以降での小休止時間が(ソリ隊到着を待つ関係で)予定より延びて「行軍全体の遅れ」と「田代到着前に日没を迎える事態」につながっていく。田茂木野を出発し小峠が近づくと・上り坂がきつくなり積雪量が倍増したことから、先頭かんじき隊による行軍経路開拓が困難となってソリの横滑りも頻発。ソリ隊は本隊より後方へ2km以上もずるずる引き離されて遅れがますます大きくなり(2時間以上にまで広がり)、1台80kg・総勢210人分の重い荷物を積んだソリ8台の牽引&後押しを担う隊員は(重い荷物と深い雪による摩擦抵抗でソリが前へ進まず)疲労が増していった(ソリ牽引時にかいた汗はやがて激烈な寒さで凍結し、濡れた下着を貫いた冷気により凍死する隊員が続出する[注釈 30])。自身は大峠に近づいた時点で「遅れているソリを放棄し、荷物は各隊員に持たせたい。重いソリをこのまま動かすと中隊の動きが遅れる」旨の意見具申を山田少佐にしたものの、「今は難中だが、積雪の状況その他で楽になる可能性もある。ソリの放棄はいよいよ駄目な場合だ」と退けられてしまう。結局日没後に平沢手前で立ち往生するまで(本隊より援護班を送りつつ)重いソリを動かす形となり、ソリ隊員とその援護隊員は多大な負担を背負う羽目になる。小峠で小休止後は江藤伍長を先頭に立たせて「前方偵察」を命令。自身も江藤伍長の後を追いつつ(猛吹雪の中で)手元の地図と方位磁石を確認し、「(田代方面への)針路は右手である」旨を藤村曹長へ指示。賽の河原が近づくと「これより賽の河原を一気に越え、中の森・按の木森を経て馬立場を目指す」旨を部下に告げて出発命令。途中では先頭のかんじき隊を交替させると共に、ソリ隊の遅れ(もともと割り当てていた1台につき4人・8台合計32人の行李輸送隊員のみではソリを前へ進められない事態)を察知し・大峠?賽の河原?馬立場間において中橋中尉率いる小隊へ「(遅れている)後方ソリ隊の援護に付く」よう命じた。だがソリ隊の遅れは回復せず(逆にますます大きくなり)、本隊の馬立場到着後に再度「2km以上も後ろにいて大きく遅れているソリ隊の援護」へ(第1陣の中橋小隊に加え)鈴森少尉率いる小隊と下士卒30人以上を(銃・背嚢などの手荷物をこの場に置かせ身軽にさせたうえで)ソリ援護班第2陣として追加派遣。同時に藤村曹長ら15名の隊員を(宿営を手配させるための)先遣隊として田代に向かわせたが[注釈 31]、先発隊は猛吹雪と暗闇で道に迷い田代へたどり着けず、結局(伊東中尉と高橋伍長が援護していた)ソリ隊の最後尾へ合流。ソリ隊は(自身率いる中隊到着から)1時間後に馬立場へ着き本隊と合流できたものの、その先は(先頭かんじき隊がバラバラになって機能不全に陥り行軍経路開拓が困難となったため)途中の平沢手前で立ち往生してしまい、以降はソリを棄てて荷物を各隊員が持つ方針へ変更。「藤村曹長率いる先発隊からの田代到着連絡がまだない」ことを野口見習士官より知らされた山田少佐の命令で・自身が将校偵察として田代へ斥候しても先へ進めず(ソリ隊の大幅遅れで田代到着前に日没を迎え、山田少佐率いる本隊と大隊本部は先頭の自身に追いつけず立ち往生し)、ついに平沢で(想定外の行動となる)雪濠を掘っての途中露営を余儀なくされた[注釈 32]。だが、山田少佐が「翌朝までに全員が凍傷で立ち往生する事態」を危惧し、「今すぐ帰営は万やむを得ない場合の話で、夜明けを待って出発すべき」とする自身の反対を押し切って・夜明けを待たず深夜のうちに「帰営のため出発命令」したのをきっかけに、一行は(「睡眠不足と空腹」にあえいだまま)真っ暗な鳴沢付近で道に迷い(方向感覚を失う「リングワンダリング」状態に陥り)丸3日延々と彷徨った末、隊員は激烈な寒さ・極度の睡眠不足・空腹・疲労蓄積により雪上へ次々と倒れていく。山田少佐と進藤特務曹長の「帰営予定を変更し、『田代への道を知っている』と言った進藤特務曹長の案内で田代へ向かう。20km先の屯営へ帰るよりも、わずか2km先にある田代への道が見つかったことを告げたほうが必ず兵も元気を出して歩く」との妄言に翻弄され(自身が「地図上での判断では」と制止を試みるも失敗し、両人の主張に押し切られ)たため、一行が本来の針路を大きく外れて(擂り鉢状で脱出困難な)駒込川本流の谷底へ迷い込むと・直ちに地図で自隊の推定現在位置を確認し、「田代行きを名実ともに諦め、駒込川支流に沿って西へ進み馬立場へ向かう」方針へ転換。支流が行き止まりになると「中隊はこれより、この斜面を登る。進め」と命令を発したのち・崖を登る方法で谷底からの脱出を試みたが、その際半数以上の部下が滑落死してしまい・その一方で崖を登りきった隊員は猛吹雪と地吹雪の直撃を受け、落伍(遭難死)する隊員の急増を招いてしまう(猛吹雪の中、雪氷に覆われ滑りやすい急斜面を登りきって駒込川から脱出するのに精いっぱいで部下・仲間を助ける余裕は一切なかったため、滑落した隊員は崖下への置き去りを余儀なくされた。さらにスコップを持った隊員までもが滑落死したため・鳴沢第二露営地以降では雪濠を掘れず、立ったまま吹きさらし状態での露営を余儀なくされたうえ、凍傷で指先が利かなかったため・ズボンのボタンを自分で外せずそのまま垂れ流した大小便を凍結させたり、防寒装備を損傷させ酷寒冷気の直撃を受けたのが原因で雪上へ倒れる隊員が続出したこと。加えて低体温症による幻聴・幻覚に襲われたことで意味不明の言動・発狂をする隊員も相次いだため、崖登り後も激烈な寒さで落伍する部下が急増した)。立ったまま吹きさらしで一夜を明かした鳴沢第二露営地では・意識が朦朧としていた長谷部一等卒を叩き起こすと共に、他の部下も意識が朦朧とし同僚・先輩隊員に叩き起こされる様を目の当たりにして焦りの色を濃くし、「このままじっとしていて時間が経てば、ますます多くの隊員を失う。歩いているほうが被害が少ないので、すぐ出発させてほしい。夕べは夜明けまで出発を待つべきだったが、今の状況は違う」旨を山田少佐へ具申したが、「昨夜は夜中に雪濠を出たのが間違いだった。闇夜での帰路発見は極めて可能性が少ない。明日になれば暴風雪も少しは収まるだろうから、出発は明るくなるまで待つべし」と山田少佐と倉田大尉に慰留されている。鳴沢の高地では(明るくなっても天候が回復しなかったことに失望して)「天は我々を見放した。こうなったら露営地(昨日露営した平沢の雪濠)に引き返し、先に死んで逝った者と一緒に全員が死のうではないか」と絶望の叫びを上げ、ここでも長谷部一等卒ら部下が次々と雪上へ倒れ力尽きていった。中の森第三露営地では猛吹雪の中・生き残った隊員が(いかなる場合でも生きて帰営させ大量遭難を招いた責任を取らせるべく)山田少佐を囲む形で立ったまま身を寄せ合い、翌朝は自身が出発命令を出さなくても一行が田茂木野へ向け自主的に出発していった(だがこの間にも多くの隊員が激烈な寒さに耐えかねて次々と力尽きている)。これら無理な移動の結果、山田少佐の我田引水による朝令暮改的な不適切命令が重なり・かつ防寒装備も損傷させ低体温症になった部下が続出したことで、隊は(指揮命令系統の一本化と参加隊員の意思統一が最後まで一度もできず、不完全燃焼も最後まで改善できないまま)馬立場から田代への道中(屯営から23km進んだ場所)で遭難し、部下が(極度の疲労・睡眠不足・空腹のため猛吹雪と激烈な寒さに耐えかね)次々と落伍。(案内人を付けなかったことが仇となって)道に迷っただけでなく・屯営へも自力で帰れなくなり、最終的に199名の隊員が犠牲となる「史上&世界最悪の大量遭難」を招いてしまった。指揮権を奪われたとはいえ行軍の指揮官であったことから、遭難の責任を取るため、賽の河原で(「斥候となって田茂木野へ先行したのち、地元住民を雇って引き返し雪中行軍隊の救助にあたる」よう命じて)江藤伍長を田茂木野へ行かせた直後、舌を噛み切り自決[注釈 33]。雪の八甲田で徳島大尉と再会する約束は果たせず幻に終わり、徳島大尉は神田大尉の変わり果てた姿を田茂木野の遺体安置所で目のあたりにする形となった。モデルは神成文吉大尉。
伊東(いとう)中尉
演 - 東野英心第五中隊第一小隊長。藤村曹長・江藤伍長と共に神田大尉の行軍本番前調査に同行し、田茂木野村の村長・作右衛門より八甲田の様子などについて説明を受けた。雪中行軍隊の結団式後は先輩の藤村曹長・江藤伍長と共に、(上部組織である)大隊本部が随行することで指揮系統が乱れることの不安を抱いた[注釈 34]。本番で不安は的中し、行軍に随行するだけのはずであった大隊の山田少佐が行軍隊に「出発用意」を命令したことに違和感を抱き、神田大尉に「随行の大隊本部が命令(本来指揮権を持たない山田大隊長殿が神田中隊長殿の指揮に干渉)とはどういうことか?」と確認したりした[注釈 35]。行軍本番中は神田大尉の副官の立ち位置で、指示の復唱により隊員へ指示を行き届かせた。気象観測担当も兼務したが、実際に気象観測をしたのは予備演習時のみで、本番では遅れていたソリ隊援護が主体の任務となった。往路・大峠で小休止し馬立場への出発直前には、山田少佐が勝手に出発命令したことで「やりにくいことになった。進軍はいいが、大隊長殿がああだと(中隊長・神田大尉殿より指揮権を奪って我田引水したら)この先どうなるのか」と藤村曹長に不安を訴えた(藤村曹長は「神田大尉殿は進軍の腹として、大隊長殿を立てながらも雪中行軍を必ず成功させる」と返答)。往路・馬立場で小休止しソリ隊到着を待っていた時に日没を迎え「藤村曹長率いる先発隊からの田代到着連絡がまだない」ことを(野口見習士官からの報告で)知ると、小野中尉と共に「進路偵察・将校斥候の強力な先導部隊を出せば藤村曹長らと合流できるだろう」と神田大尉に提案。「まさかの(遅れているソリ隊援護という予定外の)行動で下士卒は疲れているから、一刻も早く田代に着けるようにしてほしい」と懇願もした[注釈 36]。その後は鈴森少尉・高橋伍長らと共に田代へ向けて「本隊より大幅に遅れていたソリ隊の援護」を担い、(「大隊本部にソリの放棄を進言する。後尾を見てくる」と言ったあと高橋伍長に呼ばれ)その最後尾で藤村曹長率いる先発隊を発見。「暗くなって道に迷い、風の乱れで方向が全く分からず、どうしても田代への道を見つけられない」旨の返答・報告を藤村曹長より受けた。平沢第一露営地の雪濠では、「大隊本部(山田少佐殿)のやり方には疑問を感じる。指揮権が神田大尉殿に戻ってほしい」と小野中尉に不満を漏らした。復路・馬立場からの出発時には「生き残った隊員の中で最も元気そう」との理由から、倉田大尉より「(大量遭難を招いた責任を取らせるべく・山田大隊長殿をいかなる場合でも必ず生きて帰営させるため)隊列の最後尾に付く」よう命ぜられた。復路・神田大尉麾下で大峠方面へ向かう集団と、倉田大尉麾下で駒込川方面を向かう集団を賽の河原で二分した際には倉田大尉の側に付き、山田少佐を含めた3名で駒込川方面を目指した[注釈 37]。後、倉田大尉、山田少佐と共に救助隊に発見され救出された。モデルは生存者の一人である伊藤格明中尉。
中橋(なかはし)中尉
演 - 金尾哲夫第六中隊第二小隊長。田茂木野から小峠への往路において神田大尉より「先頭かんじき隊は交代。中橋小隊は後方ソリ隊の援護に付け」と命ぜられ、ソリ援護班第1陣として遅れがちだったソリ隊の援護にあたる。しかしソリ隊の遅れは回復せず、馬立場への本隊到着後も神田大尉の指示で(追加第2陣の鈴森少尉らと共に)「(2km以上も後方へ引き離された)ソリ隊援護」へ再度派遣されている。
小野(おの)中尉
演 - 古川義範第七中隊第三小隊長。馬立場で小休止時には「進路偵察・将校斥候の強力な先導部隊を出せば、田代から藤村曹長を出して伝令に途中で会えるかもしれない」と神田大尉に提案。やがて「日没のため平沢で雪濠を掘り途中露営」へ切り替わると、(平沢第一露営地に掘られた雪壕の中で)「指揮権を山田少佐殿に奪われても、神田大尉殿はこの雪中行軍を必ず成功させる」と隊を鼓舞する。しかし、駒込川の峡谷から崖を登って脱出した後、卒倒し凍死した。モデルは水野忠宜中尉。
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