八甲田山_(映画)
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また、汽車(現在の奥羽本線)で弘前の徳島大尉の自宅を訪ねて岩木山雪中行軍の情報収集を行い、八甲田雪中行軍の参考資料とした[注釈 24]。津村連隊長より「先に提出された徳島隊行軍計画書が受理され、三十一連隊の雪中行軍実施許可が出された」旨の電話連絡を受けると直ちに連隊長室へ赴き、(徳島隊の行軍計画書を山田少佐ら同席の下で閲覧したのち)「青森市内より田茂木野?田代?増沢経由の一本道で三本木へ向かう」とする自隊の行軍経路を津村連隊長・山田少佐らに説明。席上・津村連隊長より「本番での行軍隊編成はどうするか」について聞かれると、「(自分としては、徳島大尉より学んだ事項を踏まえて)極力少人数の小隊編成とし・道案内人も必要と考えるが、それらの可否は小峠までの予備演習結果をみて決める」と述べた。だが、作右衞門の説明・徳島大尉宅での勉強会で学んだ内容・予備演習の成果は雪中行軍本番に活かされず、上官の第二大隊長・山田少佐には「(『冬の八甲田は白い地獄だ』との話を地元民より聞いたため)田茂木野で事前に案内人を頼んだ」旨を報告しなかった。のちに(徳島隊の行軍計画書閲覧時に「小隊編成の三十一連隊長距離行軍は強引かつ無謀すぎるから成功するとは思えない」と皮肉り、「小峠までの予備演習結果は良好だった」旨の報告を神田大尉より受けた)山田少佐が雪中行軍の目的を「小隊編成かつ長距離の三十一連隊に勝つため」へとすり替え・「大隊を繰り出しても八甲田へ行ける」として本番直前に(自身の小隊編成要望を一方的に退けて)行軍隊編成を急きょ変更。(自身の当初計画になかった想定外事項として)山田少佐率いる大隊本部が(「今後の寒地教育指導&訓練体制確立を目指すための雪中行軍研究」を目的に)「編成外」として行軍に随行することとなり、本隊は「自身率いる五中隊を主力とした・五連隊全体が参加する中隊編成」へと変わったことで、行軍本番は予備演習時とは180度異なる条件となり・参加人数が「(自身が希望した当初の小隊規模から一方的に組み替えさせられ)行軍本隊196名・随行大隊本部員14名の計210名。(食糧・燃料・炊事道具・寝袋などを積んだ)行李輸送隊ソリ8台」へと大きく膨れ上がった[注釈 25]。本番前は毎晩遅くまで自宅で行軍隊編成計画作成に没頭。徳島大尉より速達で届いた手紙も読み「徳島隊が1月20日に弘前を出発する」旨を知った[注釈 26]。本番前(予備演習終了後)に「(自分宛ての手紙が兄の斎藤伍長から届いたため)青森市内の叔母の家へ行きたいので外出許可がほしい」と申し出た従卒の長谷部一等卒には、外出許可を出す際「(行軍本番前調査に同行した)藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉を中隊長室へ呼ぶ」よう言い、徳島隊出発前日に「本番での行軍隊編成最終決定版」を(藤村曹長・江藤伍長・伊東中尉に)説明した。席上「五連隊全体が行軍に参加する中隊編成は良いと思う。だが大隊本部随行は編成外の参加とはいえ、『中隊指揮権を持つ中隊長殿の上に・もう一つ上部機関がくっつく』ことになるから、船頭多くして船山に登る(神田中隊長殿・山田大隊長殿相互間で指揮権奪い合いが起きて命令系統が曖昧になる)事態を招きそうで不安だ」との訴えが藤村曹長らより出たが、徳島隊出発日が迫り自隊も本番まで時間がなかったことから「自隊の出発が遅れれば、事前に決めた『徳島隊と八甲田ですれ違う』約束を守れなくなる」と焦りの色を濃くし、山田少佐の言いなりになる形で「大隊長殿には大隊長殿のお考え(『小隊編成かつ長距離の徳島隊に勝ちたい』との強い思い)もあるようだ」として部下からの声を一切聞き入れず、「自身率いる五中隊が根幹の主力という柱を維持しつつ、たとえ2個や1個小隊になったとしても行軍に最適となる参加者人選を急ぐ」よう藤村曹長らへ一方的に(トップダウンで)命じた。このため部下は「本番で指揮系統が乱れる(指揮官が事実上2名となり、山田大隊長殿・神田中隊長殿どちらの命令に従えば良いのか迷ってしまう)不安」と「自分たちの意見・要望が上司に受け入れてもらえない不満」がくすぶった(解消されない)まま、「不完全燃焼」・「(余裕のない準備期間からくる)事前準備不足」・「(結果として冬山の知識に乏しく、雪を軽視する隊員が大半を占めてしまう)急ごしらえの参加者選考」・「(雪中行軍するにはあまりにも多すぎる)過剰な参加人員と大荷物」状態で雪中行軍本番を迎える形となり、これが悲劇(世界最悪の大量遭難による五連隊全滅)のきっかけとなっていく。こうして「五連隊雪中行軍計画書」は(徳島隊出発当日に)山田少佐によって津村連隊長へ提出・決裁され、雪中行軍実施許可が出された。連隊長室で行われた結団式では自身が(本隊に属する)各小隊長の名を・山田少佐が随行大隊本部員代表の名をそれぞれ読み上げ、津村連隊長より「行軍隊・随行員計210名の中から、たとえ一人といえども落伍者その他を出さぬよう万全の準備をすべし」との訓示を受ける。結団式後は「参加隊員の役割分担」・「凍傷を引き起こさないための注意事項(服装や携行品など)」の説明を部下(各小隊長と見習士官)に行った[注釈 27]。出発前夜は妻・はつ子に「携帯懐炉[注釈 28]を余分に5・6日分用意する」よう要請。従卒の長谷部一等卒も(外出許可を得て叔母の家へ行ったものの兄・斎藤伍長とは会えなかったため、兄からの『雪中行軍に参加すべきでない』伝言を叔母より受け取ったのみで、その後やむを得ず足を運んだ)自身の家(神田大尉宅)で風呂を沸かす手伝いをしつつ・出発前夜まで行軍本番前準備をし、自身には「小峠(までの予備演習)はまるで雪の中の遠足だったから、雪中行軍なんて(本番も)大したことない。本番は八甲田で三十一連隊とすれ違う旨の噂を聞いたので、自分が行軍に出れば久々に兄(斎藤伍長)に会える」と述べて行軍参加に前向きな姿勢を示し、(「もし冬の八甲田が恐いと思うなら行軍に参加しなくても良い」と自身が言っても「兄は心配性なだけ。従卒の自分が行軍に出なければ中隊長殿に失礼になる」として)「自らの意思で行軍に参加する」旨を強調した。雪中行軍本番当日(1月23日)、神田隊は午前6時55分に青森市内の屯営を出発したが、部下の不安は案の定的中。計画段階から大隊長の山田少佐と行軍隊編成規模・案内人雇用&大隊本部随行の是非・指揮権などを巡って対立した挙句、途中の田茂木野以降は(津村連隊長への行軍計画書提出時に「中隊指揮は一切神田大尉へ任せる」と述べ、本来は随行のみで指揮権を持たないはずの)山田少佐に全体の指揮権を奪われ、意見具申もほとんど却下。山田少佐の方針により「道案内人なしで(手元の地図と方位磁石を頼りに)猛吹雪の八甲田へ突入する」[注釈 29]不完全燃焼状態での行軍となった。また(麓の田茂木野までとは天候が180度一変し猛吹雪となった)大峠では、永野三等軍医に「八甲田付近での天候悪化が予想されているため、行軍を中止し帰営すべき」と進言されるも(行軍続行を強力主張する)大隊本部の下士官(進藤特務曹長・今西特務曹長・田村見習士官・井上見習士官)に「天候が変わりやすい山の上は突然の吹雪が当たり前(日常茶飯事)。兵卒・下士卒と我々大隊本部員は防寒装備を十分整え保温もきちんとできているから、ここで行軍中止では雪中行軍の計画・準備が無駄になる。行軍がこれ以上続行不可能とは思えず、たとえ作戦遂行が不可能な状況に陥っても・それを可能にするのが我々の任務だ」と反対され、(自身が何も言えない不完全燃焼のまま)山田少佐に「悪天候でも予定通り田代に行く」と勝手に出発命令された。ソリ隊は「(参加人数が大きく膨れ上がり)予備演習時とは比べ物にならない大量の重い荷物を引かされた」ため(ソリをなかなか前へ進められず・摩擦抵抗が増して大汗をかき)体力を消耗。屯営から平坦な道だった幸畑を過ぎた時点で既に本隊より遅れ始め、田茂木野以降での小休止時間が(ソリ隊到着を待つ関係で)予定より延びて「行軍全体の遅れ」と「田代到着前に日没を迎える事態」につながっていく。田茂木野を出発し小峠が近づくと・上り坂がきつくなり積雪量が倍増したことから、先頭かんじき隊による行軍経路開拓が困難となってソリの横滑りも頻発。ソリ隊は本隊より後方へ2km以上もずるずる引き離されて遅れがますます大きくなり(2時間以上にまで広がり)、1台80kg・総勢210人分の重い荷物を積んだソリ8台の牽引&後押しを担う隊員は(重い荷物と深い雪による摩擦抵抗でソリが前へ進まず)疲労が増していった(ソリ牽引時にかいた汗はやがて激烈な寒さで凍結し、濡れた下着を貫いた冷気により凍死する隊員が続出する[注釈 30])。自身は大峠に近づいた時点で「遅れているソリを放棄し、荷物は各隊員に持たせたい。重いソリをこのまま動かすと中隊の動きが遅れる」旨の意見具申を山田少佐にしたものの、「今は難中だが、積雪の状況その他で楽になる可能性もある。ソリの放棄はいよいよ駄目な場合だ」と退けられてしまう。結局日没後に平沢手前で立ち往生するまで(本隊より援護班を送りつつ)重いソリを動かす形となり、ソリ隊員とその援護隊員は多大な負担を背負う羽目になる。小峠で小休止後は江藤伍長を先頭に立たせて「前方偵察」を命令。自身も江藤伍長の後を追いつつ(猛吹雪の中で)手元の地図と方位磁石を確認し、「(田代方面への)針路は右手である」旨を藤村曹長へ指示。賽の河原が近づくと「これより賽の河原を一気に越え、中の森・按の木森を経て馬立場を目指す」旨を部下に告げて出発命令。途中では先頭のかんじき隊を交替させると共に、ソリ隊の遅れ(もともと割り当てていた1台につき4人・8台合計32人の行李輸送隊員のみではソリを前へ進められない事態)を察知し・大峠?賽の河原?馬立場間において中橋中尉率いる小隊へ「(遅れている)後方ソリ隊の援護に付く」よう命じた。だがソリ隊の遅れは回復せず(逆にますます大きくなり)、本隊の馬立場到着後に再度「2km以上も後ろにいて大きく遅れているソリ隊の援護」へ(第1陣の中橋小隊に加え)鈴森少尉率いる小隊と下士卒30人以上を(銃・背嚢などの手荷物をこの場に置かせ身軽にさせたうえで)ソリ援護班第2陣として追加派遣。同時に藤村曹長ら15名の隊員を(宿営を手配させるための)先遣隊として田代に向かわせたが[注釈 31]、先発隊は猛吹雪と暗闇で道に迷い田代へたどり着けず、結局(伊東中尉と高橋伍長が援護していた)ソリ隊の最後尾へ合流。ソリ隊は(自身率いる中隊到着から)1時間後に馬立場へ着き本隊と合流できたものの、その先は(先頭かんじき隊がバラバラになって機能不全に陥り行軍経路開拓が困難となったため)途中の平沢手前で立ち往生してしまい、以降はソリを棄てて荷物を各隊員が持つ方針へ変更。「藤村曹長率いる先発隊からの田代到着連絡がまだない」ことを野口見習士官より知らされた山田少佐の命令で・自身が将校偵察として田代へ斥候しても先へ進めず(ソリ隊の大幅遅れで田代到着前に日没を迎え、山田少佐率いる本隊と大隊本部は先頭の自身に追いつけず立ち往生し)、ついに平沢で(想定外の行動となる)雪濠を掘っての途中露営を余儀なくされた[注釈 32]。だが、山田少佐が「翌朝までに全員が凍傷で立ち往生する事態」を危惧し、「今すぐ帰営は万やむを得ない場合の話で、夜明けを待って出発すべき」とする自身の反対を押し切って・夜明けを待たず深夜のうちに「帰営のため出発命令」したのをきっかけに、一行は(「睡眠不足と空腹」にあえいだまま)真っ暗な鳴沢付近で道に迷い(方向感覚を失う「リングワンダリング」状態に陥り)丸3日延々と彷徨った末、隊員は激烈な寒さ・極度の睡眠不足・空腹・疲労蓄積により雪上へ次々と倒れていく。山田少佐と進藤特務曹長の「帰営予定を変更し、『田代への道を知っている』と言った進藤特務曹長の案内で田代へ向かう。20km先の屯営へ帰るよりも、わずか2km先にある田代への道が見つかったことを告げたほうが必ず兵も元気を出して歩く」との妄言に翻弄され(自身が「地図上での判断では」と制止を試みるも失敗し、両人の主張に押し切られ)たため、一行が本来の針路を大きく外れて(擂り鉢状で脱出困難な)駒込川本流の谷底へ迷い込むと・直ちに地図で自隊の推定現在位置を確認し、「田代行きを名実ともに諦め、駒込川支流に沿って西へ進み馬立場へ向かう」方針へ転換。支流が行き止まりになると「中隊はこれより、この斜面を登る。進め」と命令を発したのち・崖を登る方法で谷底からの脱出を試みたが、その際半数以上の部下が滑落死してしまい・その一方で崖を登りきった隊員は猛吹雪と地吹雪の直撃を受け、落伍(遭難死)する隊員の急増を招いてしまう(猛吹雪の中、雪氷に覆われ滑りやすい急斜面を登りきって駒込川から脱出するのに精いっぱいで部下・仲間を助ける余裕は一切なかったため、滑落した隊員は崖下への置き去りを余儀なくされた。さらにスコップを持った隊員までもが滑落死したため・鳴沢第二露営地以降では雪濠を掘れず、立ったまま吹きさらし状態での露営を余儀なくされたうえ、凍傷で指先が利かなかったため・ズボンのボタンを自分で外せずそのまま垂れ流した大小便を凍結させたり、防寒装備を損傷させ酷寒冷気の直撃を受けたのが原因で雪上へ倒れる隊員が続出したこと。加えて低体温症による幻聴・幻覚に襲われたことで意味不明の言動・発狂をする隊員も相次いだため、崖登り後も激烈な寒さで落伍する部下が急増した)。立ったまま吹きさらしで一夜を明かした鳴沢第二露営地では・意識が朦朧としていた長谷部一等卒を叩き起こすと共に、他の部下も意識が朦朧とし同僚・先輩隊員に叩き起こされる様を目の当たりにして焦りの色を濃くし、「このままじっとしていて時間が経てば、ますます多くの隊員を失う。歩いているほうが被害が少ないので、すぐ出発させてほしい。夕べは夜明けまで出発を待つべきだったが、今の状況は違う」旨を山田少佐へ具申したが、「昨夜は夜中に雪濠を出たのが間違いだった。闇夜での帰路発見は極めて可能性が少ない。明日になれば暴風雪も少しは収まるだろうから、出発は明るくなるまで待つべし」と山田少佐と倉田大尉に慰留されている。鳴沢の高地では(明るくなっても天候が回復しなかったことに失望して)「天は我々を見放した。こうなったら露営地(昨日露営した平沢の雪濠)に引き返し、先に死んで逝った者と一緒に全員が死のうではないか」と絶望の叫びを上げ、ここでも長谷部一等卒ら部下が次々と雪上へ倒れ力尽きていった。中の森第三露営地では猛吹雪の中・生き残った隊員が(いかなる場合でも生きて帰営させ大量遭難を招いた責任を取らせるべく)山田少佐を囲む形で立ったまま身を寄せ合い、翌朝は自身が出発命令を出さなくても一行が田茂木野へ向け自主的に出発していった(だがこの間にも多くの隊員が激烈な寒さに耐えかねて次々と力尽きている)。これら無理な移動の結果、山田少佐の我田引水による朝令暮改的な不適切命令が重なり・かつ防寒装備も損傷させ低体温症になった部下が続出したことで、隊は(指揮命令系統の一本化と参加隊員の意思統一が最後まで一度もできず、不完全燃焼も最後まで改善できないまま)馬立場から田代への道中(屯営から23km進んだ場所)で遭難し、部下が(極度の疲労・睡眠不足・空腹のため猛吹雪と激烈な寒さに耐えかね)次々と落伍。(案内人を付けなかったことが仇となって)道に迷っただけでなく・屯営へも自力で帰れなくなり、最終的に199名の隊員が犠牲となる「史上&世界最悪の大量遭難」を招いてしまった。指揮権を奪われたとはいえ行軍の指揮官であったことから、遭難の責任を取るため、賽の河原で(「斥候となって田茂木野へ先行したのち、地元住民を雇って引き返し雪中行軍隊の救助にあたる」よう命じて)江藤伍長を田茂木野へ行かせた直後、舌を噛み切り自決[注釈 33]
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